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卓球人生の道しるべになってきた熱い思い「卓球を日本でもメジャーにしたい」

2019年1月9日 13:40配信

選手たちの目覚ましい活躍とあいまって、日本の卓球人気は右肩上がりだ。その功労者のひとりにプロ卓球選手の水谷隼がいる。日本の男子卓球が低迷を続けていた1990年代、彗星のごとく現れ、救世主として第一線を走り続けてきた。その道のりは山あり谷ありだったが、水谷選手には原動力となる「ある思い」が常にあった。2016年リオデジャネイロ五輪で悲願のメダルを手にし、昨年10月には待望の卓球新リーグ「Tリーグ」が開幕した今、水谷選手は何を思っているのか。気になる本音に迫る前に礎となった少年時代から振り返る。

厳しい両親のもと習い事で多忙だった小学生時代

 僕が卓球を始めたのは5歳の時です。故郷の静岡県磐田市で両親が卓球スポーツ少年団を開いていて、2歳上の兄貴が卓球をしていたので、自分も自然と卓球をやるようになりました。スポーツはいろいろやりましたね。最初に習ったのは水泳でその後、卓球と並行しながらサッカーやソフトボール、中学校の部活動ではテニスもやりました。他にも小学校1年?6年生は習字とそろばん、ピアノも習っていました。今は音符を読めるかどうかも微妙ですけど(笑)。

 両親は厳しかったですよ。母はものすごく学業にうるさくて、テストで悪い点数を取ると、めちゃめちゃ怒られました。父は卓球です。試合で負けると当然怒るんですが、たとえ勝っても、それはそれで反省点があるので結局は怒られるんです。どうしてそんなに厳しかったのか、後になって理由を聞いてみたところ、僕を卓球のトップ選手に育てようと言うよりは、「何かひとつでいいから特別な技能を身につけ、その分野で花を咲かせてほしかった」と言っていました。そんな中で最初に芽があると感じたのが卓球だったそうです。

衝撃を受けたドイツと日本の競技環境の違い

 これまでの卓球人生にはいくつか転機がありました。その最たるは、2008年北京と2012年ロンドンで届かなかった五輪のメダルをようやく手にできた2016年リオデジャネイロ(男子団体で銀、男子シングルスで銅)ですけれど、最初の転機は14歳で経験したドイツ・デュッセルドルフへの卓球留学でした。当時、多くの日本人選手が国内でプレーをしていて長期間、海外でプレーするなんて前例がありませんでした。それに僕自身、まだ中学2年生だったので親元を離れて生活するなんて考えたこともなくて、すごく難しい決断でしたね。

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