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悲運のマラソンランナー・瀬古利彦の“栄冠” オリンピック感動物語

2018年1月11日 12:30配信

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©Kyodo/Getty Images

年始、青山学院大学の4連覇が記憶に新しい箱根駅伝。その箱根で圧倒的な強さを誇り、勢いそのままにマラソンの世界でも大活躍したスター選手といえば、往年の名ランナー・瀬古利彦。昨年のヒットドラマ『陸王』への出演も話題を呼びました。

マラソン王国日本を象徴するような存在ですが、実はオリンピックのメダルとは縁がないまま現役生活にピリオドを打ちました。“悲運のヒーロー”の物語とは?

(文・小林信也)

ボイコットで露と消えた“幻の金メダル”

オリンピックは、勝利者ばかりでなく、結果的に“悲運のヒーロー”を生み出す舞台ともなる。他の国際大会で圧倒的な強さを誇りながら、「4年に一度」のオリンピックとタイミングが合わず、晴れの舞台で栄光に恵まれなかった選手たちが数多く存在する。

陸上・男子マラソンの瀬古利彦もそのひとりだ。

現在はDeNAランニングクラブ総監督、東京2020オリンピックに向けた日本陸連のマラソン強化戦略プロジェクトリーダーも務める瀬古利彦は、1970年の終わりから1980年代にかけて、無敵の強さを誇る「国民的な人気ランナー」だった。

早稲田大時代、箱根駅伝では1年から4年まで「花の2区」を走り、3、4年で区間賞を獲得。早大2年の1977年12月、2度目のマラソンとなる福岡国際マラソンで5位に入賞(日本人1位)。翌1978年の福岡国際マラソンで初優勝(日本人8年ぶり)。それから1980年まで、瀬古は福岡国際で3連覇を果たした。この間、1979年4月のボストン・マラソンでは強豪ビル・ロジャース(アメリカ)に次いで2位に入るなど、世界の舞台で頂点を狙える存在と目されていた。

1980年に開催されたモスクワオリンピックで、瀬古は当然のように日本代表に選ばれた。ところが、ソ連のアフガニスタン侵攻によって西側諸国がボイコット。日本政府は不参加を決め、瀬古の出場は幻となった。「瀬古が出れば絶対金メダルが取れたのに」との悔しさは、瀬古自身だけでなく、多くのファン共有の思いだった。それを実証するかのように、モスクワオリンピック後の12月の福岡国際マラソンで、モスクワオリンピック金メダリストのチェルピンスキー(当時東ドイツ)を破って優勝する。

(なんとか、次のオリンピックでは瀬古に金メダルを獲らせたい)

それは、瀬古の周囲や陸上関係者だけでなく、国民の全体の願いのようなものになった。

角刈りで黙々と走る姿は、恩師・中村清監督との厳しい師弟関係のイメージもあって「修行僧のようだ」と形容されたが、素顔は決してストイックなばかりではなかった。代々木公園や神宮外苑を練習コースにしていた瀬古が走る姿は、当時、都心の名物風景のひとつともなっていた。瀬古が颯爽と走り去ると、誰もが振り返り、感嘆し、笑顔になった。その姿は爽やかで飄々としていた。

©Getty Images

夢のオリンピックへ……再びの落胆

1981年4月のボストン・マラソンで優勝。再び世界にその名を轟かせた。だが、この後のトラック・レースで瀬古は足を故障する。そのケガのため、1年以上、マラソンから離れた。そのころから、少しずつ暗雲が瀬古を覆い始める。いくつもの病院を訪ね歩きながらケガが治らない過程で、私は縁あって瀬古の治療に立ち会った経験がある。名医と呼ばれる医師の診察と治療を受けてもなかなか痛みが消えない。「ワラにもすがる思いでここに来ました」、そう言ってトレーナーに治療を依頼する瀬古の苦悩は浅くないものだとわかったが、それでも瀬古の顔には笑顔があった。

瀬古の苦境を救ったのは、独自のスポーツ針を身につけた盲目の鍼灸師・小林尚寿だった。1983年4月の東京国際マラソンで復活優勝を遂げると、1983年12月の福岡国際マラソンでも優勝。ロサンゼルスオリンピック(1984年)の代表に選ばれ、ついにオリンピック金メダル獲得への挑戦権を得る。

それまでの瀬古は「走れば勝つ」。1979年の福岡国際マラソンから連続5回のマラソンで連戦連勝。日本人選手には1977年の福岡以来、8回連続、負けていない。瀬古への期待は当然のように高まっていた。しかし、オリンピックの女神は瀬古に冷たかった。8月の暑さの中、ロサンゼルスオリンピックのレースが始まると、35キロにかかる前に先頭から遅れ、見る者は言葉を失った。結果は14位。それまでの無敵ぶり、瀬古の実績からは信じられない姿だった。後に瀬古自身、その年は序盤から倦怠感が消えず、体調が思わしくなかったと述懐するが、レースの日まで、そのような不安は伝えられなかったため、日本中の落胆はひときわ大きかった。

オリンピックの女神に見放された瀬古がつかんだ“栄冠”

その後、1986年から88年まで、ロンドン、シカゴ、ボストン、びわ湖、世界の強豪たちとの激闘を制して4連覇を飾り、ソウル(1988年)で再びオリンピックの舞台に立った。だがケガもあり、すでに瀬古の勢いが下り坂にあることは多くのファンが案じていた。結局、ソウルでは9位に終わり、またしても瀬古はオリンピックの舞台で苦杯を喫する。1978年から88年まで、13回のマラソンを走って10回優勝。2位が1回。入賞を逃したのはオリンピックの二度だけだ。

ファンが意外に思ったのは、ソウルオリンピックのフィニッシュだ……。

9位でゴール、つまり「惨敗」、誰もが暗く沈む瀬古の表情を予想していた。ところが、瀬古利彦は、両手の拳を高く上げ、いつもトップでゴールするときの代名詞だった「グリコのポーズ」でゴールラインを通過した。金メダルを願っていたファンには、思いがけない仕種だった。それは、厳しいコンディションで、最後までレースを続けることができた。長いマラソン人生を走りきった瀬古利彦が自分自身に与えた栄冠だったのかもしれない。

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