東京2020

コラム

1964東京で日本が獲った「もうひとつの金メダル」 オリンピック感動物語

2018年3月22日 10:10配信

©The Asahi Shimbun/Getty Images

東京2020オリンピックが間近に迫った東京で前回オリンピクが開催されたのは、1964年のこと。復興のシンボルとして国民の期待を背負っていた東京オリンピックでは、バレーボール、柔道など日本の“お家芸”が正式種目に採用されました。全階級金メダルを至上命題とされた柔道では、最も重要視されていた「無差別級」でオランダ人のヘーシンクが金メダルを獲得する波乱が起きました。落胆する日本の柔道関係者の目前でヘーシンクが取った行動とは?(文=小林信也)

日本の全階級制覇に立ちはだかったオランダ人

1964年、東京オリンピック。この大会で新たに採用された柔道は、日本のお家芸として、全種目で金メダルが期待されていた。

大会11日目の10月20日、軽量級で中谷雄英が金メダル。21日は中量級で岡野功が金メダル。22日は重量級で猪熊功が金メダル。順調に3階級を制覇した。残すは23日の無差別級。実は最も重要ともいえるこの階級だけが、日本にとって見通しが立っていなかった。オランダのアントン・ヘーシンクという高い壁が日本の神永昭夫の前に立ちはだかっていたからだ。

14歳で柔道を始めたヘーシンクは、198cmの長身。20歳のころ、オランダ柔道チームの指導を始めた日本人・道上伯の目に留まり、本格的な稽古を始める。道上は、日本の柔道界と意見が合わず、講道館柔道から追われるようにヨーロッパに渡った柔道家だった。

道上は、勝利至上主義に傾きかけていた日本の柔道界とは違い、古来、柔道家たちが受け継いできた伝統を継承し、日本以上に日本らしい柔道だと自負する稽古をヘーシンクに指導した。

1961年、ついにヘーシンクは日本人以外で初めて、世界選手権優勝を飾る。オランダに凱旋したとき、30万人もの人々がヘーシンクを祝福したと伝えられている。

日本の柔道をもっと学びたい、日本を深く知りたい……、ヘーシンクはしばしば日本を訪れ、講道館はじめ日本有数のチームや道場で稽古を重ねた。誰の目にも、ヘーシンクの脅威は明らかだった。見上げるような巨体、力だけでなく柔道の繊細な技や呼吸も身につけた“巨像”ヘーシンクを撃破するのは、さすがの猪熊、神永も簡単ではない……。

打倒ヘーシンクを託された神永

当時、柔道界は“神猪時代”と呼ばれていた。神永昭夫、猪熊功のふたりが王者を争い、日本柔道を牽引していた。神永は、1960年、61年、64年の日本選手権を制し、当時としては史上最多3度の優勝を遂げていた。猪熊は1959年(大学3年)に初めて出場した日本選手権の決勝で神永を破り初優勝。続く2年も決勝は神永と猪熊の対決となったこともあり、“神猪時代”と呼ばれるようになった。ただ、猪熊は東京五輪の年の全日本選手権の準決勝で敗れたこと、173cm、88kgと国際大会の無差別級を戦うには身体が小さかったことなどあり、東京五輪には重量級で代表に選ばれた。

東京五輪の舞台で打倒ヘーシンクの使命を担うのは神永昭夫と決まった。神永は、ヘーシンクが初めて世界一に輝いた1961年の世界選手権でヘーシンクに敗れている。勝てる秘策があったわけではない。だが、負けるわけにはいかない。ところが、本番直前、神永は左膝靱帯断裂という、畳の上に立つことさえ難儀なケガに見舞われた。その事実は隠したまま、闘いに臨んでいた。

それでも神永はヘーシンクを相手に粘り強く闘った。試合時間10分まであと2分を切った8分過ぎ、神永は渾身の力を発揮して“体落とし”をかけた。しかし、これをヘーシンクに潰され、懸命に逃れるものの、ついに袈裟固めで抑え込まれた。ヘーシンクの左腕が神永の首筋を抱え込み、巨体が神永の胸に覆い被さる。それでも抵抗を続けたが、空しく時間が過ぎ、押さえ込みで一本負けを喫した。それは、晴れの舞台、よりによって東京でさらした“生き恥”だと、日本柔道界の関係者の多くが感じた……。

©The Asahi Shimbun/Getty Images

畳のすぐ下で、監督やコーチが頭を抱え、視線を落とし、“すべてが終わった”かのように、落胆、憔悴していた。

日本が負けた。柔道ニッポンの威信が地に落ちた。そんな風に感じたのだろう。それが当時の日本の空気であり、競技に打ち込む多くの日本人の考え方だった。

ヘーシンクの優勝が決まってすぐ、祝福のために土足のまま畳にあがってヘーシンクに駆け寄ろうとしたオランダの若者がいた。ヘーシンクはこれを見てすぐ、まだ腕の中に半ば神永を抱えた状態で血相を変え、すぐ立ち上がって青年を押しとどめた。

「土足で畳に上がってはいけない。ここは神聖な場なのだ」

ヘーシンクには苦い思い出があった。かつて世界選手権で優勝した際、大勢の観衆が畳に上がり、身動きできなくなった。畳に土足で上がることに抵抗を感じないオランダ人にヘーシンクは言葉を失った。それが日本にとって、柔道家にとってどんな非礼かをその場で伝えることができなかった。畳を汚した、その申し訳なさがずっとヘーシンクの胸に重く淀んでいたのだ。

©Getty Images

ヘーシンクが獲得した「もうひとつの金メダル」

表彰式後の記者会見で、ヘーシンクは記者たちに囲まれて、静かに言った。

「これは、日本が獲った、もうひとつの金メダルです」

だが、その声は、日本の指導陣には届かなかった。

何のための“国際化”だったのか? いまなら、ヘーシンクの言葉を素直に受け止められず、ヘーシンクの快挙を喜ぶことができなかった“日本”の狭さ、浅さに多くの日本人が気づくだろう。そして、あの時のツケが確実にいまに蓄積され、世界の中のニッポンが大きく立ち後れている事実も理解できるだろう。リオ五輪で日本柔道は全種目にメダルを獲得し、復活と囃し立てられ、強豪ぶりを誇示し、賞賛された。それが単に、結果でしかないこと、将来に続く階段をきっちり上っているのか、単にその場の結果を整えただけではないのか? そのことがメディアで語られるのを聞いたことがない。

いま世界の柔道人気を見ると、フランスを筆頭にヨーロッパが圧倒的だという。オランダの競技者数も、人口比でいえば日本の倍だという。それだけ、柔道が根を下ろしている。しかも、日本では毎年、少なくない数の子どもたちが、柔道の授業や部活で命を落とす重大事故を起こしている。日本以上に盛んだといってもいいヨーロッパでは、ほとんど死亡事故は起きていない。この重大な現実こそ、日本が本来、真っ先に直視すべき問題ではないだろうか。

1964東京五輪で、日本はヘーシンクにメダルを奪われ、頭を抱えた。だが、あの時、ヘーシンクが勝たなければ、日本がメダルを独占していたら、柔道が五輪種目として継続的に採用されることはなかっただろうと指摘する声はいま定説になっている。1968年、メキシコ五輪で柔道は実施されなかった。それが、1972年のミュンヘン五輪で復活し、その後も種目であり続けているのは、ヨーロッパにおける普及、そして日本選手だけでなく、多くの国々の選手に優勝のチャンスがあるようになったからだ。こうした国際的な視野、競技全体の普及を見据える観点がいまの日本にどれだけ育っているか。そこに日本柔道、そして日本スポーツ界の本質的な課題がある。

コラム一覧に戻る

トピックス