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バレーボール全日本男子 “演出力”で歩んだ「ミュンヘンへの道」 オリンピック感動物語

2018年3月26日 12:30配信

©The Asahi Shimbun/Getty Images

石川祐希という逸材を擁して、「復活」を目指すバレーボール全日本男子チームですが、「東洋の魔女」と呼ばれた女子チームと並んで世界最強の名をほしいままにしていた時代がありました。日本のお家芸と呼ばれたバレーボール全盛期を築いたのは、バレーボールを国民的スポーツに押し上げた“プロデューサー”の存在がありました。

『ミュンヘンの道』を生み出した “演出力”は、日本バレーボール復活に大きなヒントを与えてくれるかもしれません。(文=小林信也)

バレーボールの国民的人気を演出した“プロデューサー”松平康隆

1972年ミュンヘンオリンピックは、日本のスポーツ界がそれまでにない革命的な方法で金メダルを獲得した画期的な舞台となった。

“演出”したのは、バレーボール全日本男子監督の松平康隆。まだプロデューサーという言葉が一般にはなじみの薄い時代。監督の松平が、全日本を文字どおりプロデュースし、バレーボール関係者でさえ多くが「無理だ」と決めつけ、夢にも描こうとしなかった「金メダル獲得」ムードを日本中に高め、本当に実現してしまった。

当時高校1年生だった私の脳裏にいまもすぐ浮かび上がるのは、毎週日曜夜に放送されていた番組『ミュンヘンへの道』(1972年放映)だ。いわば同時進行ドキュメンタリー。バレーボール全日本男子チームが、ミュンヘンオリンピックで金メダルを目指す、その過程をアニメと実写で紹介する。

マンガを原作にしたテレビアニメ『巨人の星』が一世を風靡し、女子バレーボールをテーマにした『サインはV』など、いわゆるスポーツ根性ドラマが次々とヒットした時代。だが、それまでのヒット作はいずれもフィクションだった。そこに、現実のドラマが登場した。

しかも、番組の進行とともに、ミュンヘンオリンピック本番が刻々と近づいてくる。用意された結末でなく、実際の勝負はもちろん筋書き通りにはいかない、不思議な興奮がいっそう、バレーボールと全日本男子チームへの関心をかき立てた。

それまで、ほとんど知られていなかった選手たちが、まるでアニメ・ドラマの主人公のように注目され、見る者の心にその魅力が深く刻まれた。当然、多くの視聴者にとって、全日本男子チームの金メダル挑戦は自分のことのように大切な共通の夢となった。

9人制から6人制へ 大転換期に画期的トレーニングを考案

実写で放送される練習シーンには度肝を抜かれた。トレーニングの常識や知識をはるかに超える、信じられない練習を長身の男たちが軽々とこなしていた。

紐をつけたボールをコーチが鎖鎌のようにクルクル回す。マットの上でスタンバイする選手たちは、ボールが来ると当たらないようジャンプして、マットに沈み、ボールが来るからすぐまた立ち上がる。バレーボール・コートを逆立ちして歩く姿も強烈だった。コートのライン9メートルを逆立ちで歩けなければ、全日本から追い出す。できない選手は深夜まで練習させられた……。

あまり知られていないが、東京オリンピック(1964年)の前まで、日本のバレーボール界は「9人制」が主流で、1961年までバレーボールの名選手として活躍した松平自身、プレーしていたのは9人制だった。東京オリンピックで女子バレーが初めて実施競技に採用される条件が、世界では主流になっていた「6人制」だった。松平は現役を引退してすぐ、当時世界一だったソ連に渡って、6人制のバレーボールを学んだ。

9人制はポジションが固定のため、前衛の両側に長身選手がいればなんとか勝負できる。しかし、ローテーションでポジションが移動する6人制では、セッターや、いまでいうリベロ的な選手を除いては長身であればあるほど有利。そこで松平は、バレーボールの技術や完成度は度外視し、とにかく背の高い選手を日本中から探し、全日本の合宿に参加させた。6人制バレーボールで世界一になるには、背が高くなければ勝負にならない。ところが、当時の長身選手は、動きが緩慢な選手が多かった。そこで、動きを俊敏にし、巧緻性を高めるために、さまざまなトレーニングを考案し、繰り返したのだ。

©The Asahi Shimbun/Getty Images

「東洋の魔女」と比較された不遇の全日本男子

物語の始まりは、1964年東京オリンピック前の出来事にさかのぼる。地元開催の東京オリンピックに備えて、男女ともヨーロッパに遠征した。

「東洋の魔女」と異名を取った全日本女子チームは22連勝を遂げ、強さを内外に知らしめた。一方、松平がコーチを務める男子チームは22連敗を喫し、新聞紙上では「世界のクズ」とまで揶揄された。

本番の東京オリンピックで、女子はソ連との激闘を制し、金メダルを獲得。小学校2年生だった私自身、決勝戦の実況中継をかじりついて見た記憶が鮮明に残っている。

一方、男子もよく健闘し、銅メダルを獲得した。ところが、金メダルの女子ばかりが賞賛されて、男子への注目はまったくといっていいほどなかった。象徴的なのは東京オリンピックの記録映画。「東洋の魔女」の名で日本中を熱狂させた全日本女子チームは当然、映画の中でも重要な役割を担っていた。ところが、男子チームは一瞬たりとも登場しない。その屈辱、悔しさが松平を衝き動かしたという。東京オリンピック後に監督に就任した松平は、8年計画で強化を図った。4年後のメキシコでは、計画通り一段上がって銀メダルを獲得した。

最高のフィナーレを迎えた『ミュンヘンへの道』

「次のミュンヘンで夢を実現する!」

そのために、バレーボール全日本男子チームを日本中から応援してもらう空気を創り上げなければいけない。そう考えた松平は、かつて『サインはV』を放送していたTBSに自ら企画した番組を提案しにいった。男子バレーでは視聴率は取れない。テレビ局の反応は冷たかった。その程度では諦めない。松平は、『サインはV』を提供していた不二家の社長に直訴に出向いた。たまたま慶應義塾大学の同窓だった社長は、松平の提案に感じるものがあったらしく、提供に同意してくれた。そうして番組が実現した。

ミュンヘンでは、三本柱のひとり横田忠義が腰を痛め、自転車のチューブを腰に巻きつけてプレーするなど、苦しさもあった。準決勝ではブルガリアに2セット先取され、絶体絶命のピンチに追い込まれもした。だが、バレーボール全日本男子は不屈の闘志で勝ち上がった。そしてついに決勝で東ドイツを破り、松平が絵に描いた金メダルを現実のものとした。

©The Asahi Shimbun/Getty Images

その裏には、東ドイツ監督の小学校時代の通知表を手に入れて性格を把握するなど、徹底的に情報収集し、相手チームを研究するなどの努力と姿勢があったことも勝因のひとつだ。

その後バレーボールは他の種目に先がけて積極的なルール変更を行い、スポーツビジネスとの連動を進める。時間的にテレビで中継しやすいようラリーポイント制を導入するなど、画期的な改革を進める先頭に立ったのも、松平康隆だった。松平はプロデューサーとして、世界のバレーボールをいっそうメジャーな人気スポーツに押し上げる役割も果たした。

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