東京2020

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オリンピックの女性参加への道を切り開いた人見絹枝 オリンピック感動物語

2018年3月30日 16:00配信

©Getty Images

オリンピックに女子選手が参加したのは、1900年、第2回パリ大会が初めて。それ以来さまざまな競技で門戸が開かれてきましたが、「女性がスポーツをするなんて」という時代がありました。

パリ大会の女性参加率はわずかに2.2%。1964年の東京大会でも13.2%に留まっていました。近年ではIOC(国際オリンピック委員会)が女性参加に積極的で、混合種目を多く取り入れたことから参加率も上昇し、東京2020では過去最高の48%になる予定です。

今回は、オリンピックの「男女差」を打破するパイオニアとなった日本人女性初の銀メダリスト、人見絹枝さんの物語をお届けします。(文=小林信也)

スポーツ界の「ガラスの天井」を破った日本人女性・人見絹枝

日本の女性たちは自由闊達に“好きな道”を歩んでいる。だがかつてそんな自由が許されない時代があった。女性は家庭に入る、仕事はもとよりスポーツにうつつを抜かすなど「はばかるべし」との風潮が大勢を占めた時代、女性スポーツの歴史に大きな風穴を開けたひとりの女性ランナーがいた。ヨーロッパで「ワンダフル・ヒトミ」と呼ばれ、いまも語り継がれるランナー・人見絹枝だ。

絹枝は岡山高等女学校で軟式テニス選手として活躍、体育の教師に見込まれて出場した陸上大会で、走り幅跳び4m64の日本最高記録を出した。165cmの長身に秘められた才能、将来性を誰もが嘱望した。校長に勧められ、東京の二階堂体操塾(後の日本女子体育大)に進んだ。

絹枝自身は体育を専門にするのは抵抗があったが、両親はもっと反対だった。父は師範学校に進学させて教師にしたいと考えていたし、母は一人前の家庭婦人にするため裁縫を習わせようと考えていた。

恩師の勧めを受け入れ上京した絹枝は、体操塾で女子中等学校の教員資格を取り、京都市立第一高女の教員となった。そんな絹枝にすぐ転機が訪れた。一学期だけ勤めたところで台湾に派遣され、大衆スポーツ普及の仕事を任された。帰国し、再び二階堂体操塾の研究生になってまもなく、今度は大阪毎日新聞社から熱心に入社の誘いを受けた。

当時は新聞がスポーツ普及に大きな役割を果たしていた。新聞社も、スポーツを会社発展の重要な分野と位置づけていた。朝日新聞としのぎを削る毎日新聞はやや先を越されていた。

絹枝に記者として記事を書いてもらうだけでなく、世界各国で盛んになり始めた競技会に参加させ、選手としての活動を全面的に応援する。毎日は、劣勢を挽回する切り札として人見絹枝獲得を企画したのだった。

「日本」を背負って参加した国際女子競技大会

1926年(大正15年)8月、絹枝は第2回国際女子競技大会(スウェーデン・イエーテボリ)に出場。関釜連絡船で釜山に渡り、満州鉄道、シベリア鉄道を乗り継いでモスクワに着き、そこからスウェーデンに到着する。当時の遠征は長旅だった。その疲労と孤独との闘いに勝つことが競技以前に重要だった。しかも、「楽しむ」などという発想が社会的には認められない時代……。

大会直前、所属の毎日新聞に絹枝はこんな手紙を送っている。

「明日から三日間もまた、死をかけて働いてみます。どうか私が不運にして負けることがあっても、決してお叱り下さいますな……。」

大阪毎日新聞からはこんな電報が届いている。

「シッカリヤレ ニッポンノタメニ」

絹枝は、自分に与えられた使命をあらためてかみしめた。

「負けるわけにいかない。日本の名誉のため、日本女性の存在を世界に知らしめるために」

ただひとり参加した人見絹枝は、100ヤード競走で3位、円盤投げ32m61で銀メダル。250m競走決勝ではさすがに疲労困憊、途中ガックリとスピードが落ち、最下位に敗れた。翌日は本命の走り幅跳びに絞った。ライバルのガン選手に先行を許す苦しい展開の中、絹枝は最後の6回目に最高のジャンプを見せた。7万人の大観衆から嵐のような歓声が沸き起こった。5m50、世界新記録で人見絹枝は優勝を果たした。

女子選手の陸上競技への参加が初めて認められたオリンピック

2年後の1928年に行われたアムステルダムオリンピックでは、陸上競技においてこれまで出場が見送られてきた女子選手の参加が初めて認められた。

代表選手に選ばれた絹枝は、金メダルを期待された女子100m準決勝で無名のアメリカ選手に敗れる。悔しさと申し訳ない思いで眠れぬ夜を過ごした。

「このままでは日本に帰れない」

そして、ひとつの挑戦を思い立つ。

(そうだ、800mに出場しよう。800mで、今度こそメダルを獲得する)

800mの練習などしたことはない。試合で走った経験もない。だが、

(死んでもいい、潰れるまでやろう)

仮エントリーしていた800mへの出場を決意した。

大阪毎日新聞の記者でもあった人見絹枝は、オリンピックに旅立つ前、女子800mのレース予想をこんな風に記している。

「800mはイギリスのトロッキーの2分22秒が世界記録ですが、実力では2分23秒7の記録を持つドイツのラトケが他を圧しています。記録の上ではトロッキーに十分の勝ち味がありますが、長年半マイルに600mに800mに、その研究浅からぬラトケの対戦は面白いものです。ポーランド、チェコ、フランスなどにはあまりいい選手はいません。」

9人の選手でトラックを2周する女子800m決勝。ドイツのラトケ、カナダ・トムソン、スウェーデンのゲントオル、3人が先頭を争う展開。1周目絹枝は6位。残り200mで次第にペースを上げた。5位から4位、4位からトムソンを抜いて3位に上がった。ものすごい気迫で先頭を行くラトケとゲントオルに迫る。残り100m、絹枝はついにゲントオルを捉え、2位でゴールに入った。

ゴールした途端、目が見えなくなった。絹枝は、スタート前、ゴール付近に自分で置いておいたレモン水が欲しくてたまらない。手探りでそれを見つけ、口に運ぼうとして、意識を失った。ようやく元気を取り戻すと、絹枝は泣きじゃくった。これまで一度も走ったことのない800mで2位に入れたこと、責任が果たせたことがうれしかった。

©The Asahi Shimbun/Getty Images

夭逝した女性アスリートの開拓者

人見絹枝の激走を受けて、アメリカの新聞『ニューヨーク・イブニングポスト』は、「間違っていた日本女性観」と見出しをつけて、次のように書いた。

「フィンランド、スウェーデン、ドイツ、フランスのような国が、スポーツ界におけるアメリカの伝統を破ったとしてもあえて不思議はないけれど、日本がその優越を発揮し始めたのは、アメリカにとっても新しい心配の種だ。

 日本は三段跳びのオリンピックチャンピオンを獲得したが、しかしこの勝利も、800mにおける人見絹枝の活躍ほど我々を感激させないのだ。

 この勇敢な、桜咲く国の娘は、ドイツ娘と前後して世界記録を破った。日本の婦人界をこれ以上よく示すものがあろうか。我々はいまなお、日本娘といえばきれいな着物を着込んで、茶の湯と生け花に忙しく、繊細で弱々しい体をしていると考えている。しかるに人見は、スピードと精神力において、スポーツの進んだスウェーデン、カナダ、アメリカの剛の者を打ち破った。我々の日本女性観は間違っていた」

アムステルダムオリンピックからわずか4年後、1931年(昭和6年)3月、絹枝は肋膜炎を患い、長く病床に伏せた。肋膜炎が悪化し乾酪性肺炎となり、懸命の治療のかいなく天に召された。24歳。若すぎる旅立ちだった。

絹枝が最後に活躍した第3回国際女子競技大会の開催地、チェコのプラハの人たちは、絹枝の死に深く心を痛め、国立墓地の一角に記念碑を建てた。その碑にはこう刻まれている。

「人見絹枝 1931年8月2日 大阪にて死去。愛の心をもって世界を輝かせた女性に感謝の念を捧ぐ」

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