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コラム

あの人は今…?五輪メダリストの現在を追跡する!② ~野村忠宏~

2018年5月2日 12:00配信

©Getty Images

過去に活躍した五輪メダリストの現在を探る『あの人は今…?』シリーズ!

第2回目で登場するのは、2004年のアテネオリンピック、2008年の北京オリンピックで2つの金メダルを獲得した北島康介選手。その力強い泳ぎとともに、レース後に発した「チョー気持ちいい!!」「なんも言えねぇ」といったインパクトのある言葉でも多くの人々の記憶に残っているのではないでしょうか!?

稀代のスイマーは現役引退後、何をしているのでしょうか。そのキャリアを振り返りつつ、今は一体何をしているのかを探ります。

(文=池田敏明)

五輪制覇まで無名に近かったサラブレッド

祖父は奈良県で道場を主宰する柔道師範、父は名門・天理高校柔道部の元監督、叔父はミュンヘンオリンピック柔道金メダリスト。野村忠宏選手はそんな柔道一家に生まれ、3歳で柔道を始めた“サラブレッド”でした。

しかし子どもの頃は体が小さかったこともあって目立った実績を残せていません。天理中から天理高、天理大に進学して柔道を続けましたが、全く無名の存在でした。転機が訪れたのは、天理大4年次の1996年、アトランタオリンピックの選考会を兼ねた全日本選抜柔道体重別選手権で優勝し、男子60キロ以下級でオリンピックへの切符を手にしたのです!

当時の柔道代表チームには小川直也選手や古賀稔彦選手、吉田秀彦選手、そして田村亮子(現・谷亮子)選手らそうそうたるメンバーがそろっていました。その中に交じった身長164センチの大学生は、とてもオリンピック代表選手に見えませんでした。なんとアトランタへ出発する際の空港ロビーでは、スター選手に殺到する記者たちに「邪魔だ、どけ!」と突き飛ばされてしまったほどです(!)。

そんな野村選手ですが、アトランタの畳の上では簡単には倒れませんでした。2回戦、わずか38秒で一本勝ちすると、3回戦では当時の世界王者ニコライ・オジェギン選手(ロシア)と対戦。開始早々、立て続けに2度の「有効」を奪われるものの、残り14秒で袖釣込腰を仕掛けて「技あり」を奪い、逆転勝利を飾りました! その後も4回戦、準決勝と一本勝ちし、決勝でもジローラモ・ジォビナッツォ選手(イタリア)から背負投で一本勝ち、金メダルに輝いたのでした!!

同日、田村選手がまさかの銀メダルに終わっていましたが、無名の青年のシンデレラストーリーは、そのショックを吹き飛ばしてくれたのでした!!

続く2000年のシドニーオリンピック、野村選手は危なげなく代表に選出され、心身ともに充実した状態で畳の上に立ちました。大会に臨むにあたって、当時の野村選手はある一つの宣言をしています。

「全部違う技で勝つ」

彼は見事に有言実行していきました。2回戦は賣運兵選手(中国)に一本背負投、3回戦はブランダン・グレコウスキー選手(アメリカ)に肩車、4回戦はマレク・マツゼフ選手(スロバキア)に大外刈。準決勝のマノーロ・ポウロ選手(キューバ)戦こそ一本は取れずに優勢勝ちでしたが、決勝では開始わずか14秒、鄭富競選手(韓国)を隅落で破り、オリンピック連覇を達成しました!!

この頃には野村選手の名前を知らない人はおらず、大きな期待を寄せられ、小さくないプレッシャーがある中でしたが、再び表彰台の一番高いところに立ったのでした。

軽量級での五輪連覇は、「あり得ないこと」といわれるほど難しいミッションです。その偉業を達成した野村選手は、シドニーを最後に競技としての柔道から引退することを考えていました。実際、彼はシドニー大会後にアメリカへ語学留学するなど、2年間は競技から遠ざかります。しかし、柔道から離れて自分を見つめ直す日々の中で、彼は一つの結論を導き出しました。

それは「オリンピック3連覇を目指す」というものでした!

柔道では世界初となる五輪3連覇を達成

五輪連覇を果たした野村選手にとっても、2年間のブランクはさすがに重くのしかかります。それでも最終的にはコンディションを取り戻し、2004年アテネ大会への出場権を手にしました。30歳が目前に迫り、体力的には下り坂に差し掛かっている状況でしたが、この時は畳の上に立った瞬間に「いける」と思ったと後に振り返っています。

そうして辿りついた3度目のオリンピック。連覇の絶対王者。そのオーラは相手を委縮させたのかもしれません。野村選手は一本勝の連続で勝ち上がっていきます! 決勝のネストル・ヘルギアニ選手(グルジア)戦だけは優勢勝ちになりましたが、日本初、そして柔道競技では世界初となるオリンピック3連覇を達成したのでした!!

©Getty Images

偉業を成し遂げた野村選手は、いつしか“天才”を自称するようになります。マスコミにも頻繁に取り上げられ、テレビのスポーツバラエティー番組では、軽妙な語り口で自身の“天才”エピソードを次々に披露。並の選手ならひんしゅくを買いそうな話であっても、五輪3連覇の実績を持つ彼が語ると説得力がありました。

そのままタレントに転身しても十分に通用したでしょう。しかし、野村選手は3連覇を達成した後、すぐに次の2008年北京大会を目指す決意をします。しかし2007年5月、乱取りの稽古中に右膝から「ブチブチッ」と音が聞こえ、激しい痛みに襲われてしまいました……。診断書には「前十字靭帯断裂」、「内側側副靭帯損傷」、「半月板損傷」、「大腿骨外果骨挫傷」とものものしい症状名が並びました。手術をすれば半年以上を要する大ケガです。メスを入れると北京大会の代表選考会には間に合わなくなるため、野村選手は手術を回避して選考会に臨みました。しかし、準決勝で敗れて北京五輪の出場権を逃してしまったのでした……。

五輪の連続メダルはもちろん、連続出場も途絶えましたが、野村選手は現役を続行します。満身創痍になりながらも2012年ロンドン大会を目指しましたが、やはり選考会で敗れて出場を逃してしまいました。その後は右肩や左ひざも手術。 ボロボロになりながら畳に立ち続ける姿は、“天才”という言葉の響きからは程遠いものでした。すでに肉体的には限界を超えていた野村選手は、2015年8月24日に、ついに現役引退を表明します。3つの金メダルを手にした“天才”も、度重なるケガに打ち勝つことはできませんでした。

引退後もテレビに引っ張りだこ、後進アスリートの育成も

第一線を退いた野村さんは現在、多忙な日々を送っています。2016年リオデジャネイロ大会では中継キャスターを務めるなど、キャスターやコメンテーター、インタビュアーとしてスポーツ番組に引っ張りだこの存在です。

©Getty Images

また、1999年に入社したミキハウスでは「ミキハウススポーツクラブ・ゼネラルマネージャー」として活動しており、同社に所属し、五輪出場を目指す後輩アスリートたちを支えています。

直近では2018年4月12日に「株式会社Netend(ネクステンド)」を設立。2017年の柔道世界選手権で金メダルを獲得した阿部一二三選手(日本体育大)とマネジメント契約を結びました。野村さん自身は現在、元水泳選手の北島康介さんが経営する「株式会社IMPRINT(インプリント)」の所属となっていますが、いずれ独立する可能性もあるようです。

“天才”野村忠宏さんは、きっとこれからも我々を楽しませてくれるでしょう!!

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