東京2020

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スポーツ雑学王への道!⑤「馬のバレエ」に「鳥人」の憂鬱、日本人選手初のマラソン記録は「55年」?

2018年8月14日 10:20配信

スポーツには意外と知られていない豆知識が山のようにあります。親子や恋人とのスポーツ観戦中にちらっとそんな豆知識を披露すれば、尊敬の眼差しで見てもらえるようになるかも?

『スポーツ雑学王への道!』。この連載では、ついつい人に話したくなるスポーツの豆知識をお伝えしています!

第5弾の今回は、「アテネで永久開催の可能性があった!?」、「ワインやビールを飲んで走ったギリシャの英雄!」、「第2回パリ五輪は万博のついでに開催された!?」をお届けします!

(文=仲本兼進)

馬術は障害物を飛び越えるだけじゃない!? 「馬のバレエ」に過酷さも

©Getty Images

東京2020オリンピックでは、33競技339種目が実施されますが、その競技の中で唯一、動物と一緒に行われる競技が「馬術」!

日本ではなかなかお目にかかる機会は少ない競技ですが、世界では身近でポピュラーな競技として認知されています。ドイツやアメリカなどでは人間の生活に馬が普通に溶け込んでいることも珍しいことではなく、子どものころから自由に乗馬ができ、高い障害を悠々と飛び越えてしまう小学生も多くいるほど、馬と人との距離感は密接にある環境があります。また、馬術のプロライダーが大勢いる欧米では、野球やサッカーのように常にテレビで大会の模様が放送されるほか、大会のチケットがプラチナ化することも。2010年ロンドンオリンピックでは、2万3000人収容のグリニッジ・パークが満員に膨れ上がりました!

馬術がオリンピックで採用されたのは1900年のパリオリンピックから。当時は男子選手のみの出場でしたが、1952年のヘルシンキオリンピックからは女子選手の参加も認められるようになりました。ちなみに馬術は男女に分かれて競技するのではなく同じ条件のもとで競われます。そのため男女が一緒に表彰台に上ることも珍しくなく、2016年リオデジャネイロオリンピックでは女子選手が表彰台を独占したということもありました!

オリンピックでは、障害飛越、馬場馬術、総合馬術の3種目が行われます。障害飛越は、敷地内に設けられた石垣やバー、水たまりなどの障害物を突破しながら正確にゴールすることを目指します。一般的に馬術と聞くと、この障害飛越を思い浮かぶ方も少なくないでしょう。その一方で馬場馬術はゴールを目指すのではなく、常足・速足・駆足の歩き方から縦に前進後退、横に移動したりし、その歩きの美しさと正確さを競います。会場内には音楽が流れ、選手は燕尾服を着用。馬と一体となって優雅さを競うため「馬のバレエ」とも呼ばれています。総合馬術は、障害飛越・馬場馬術・耐久競技の3種類を行い、その合計点で競われます。耐久競技とは、起伏や障害物が設置されたコースを長時間走り切る競技で、スタミナも試される最も過酷な競技ともいわれています。

その馬術競技において、日本人で唯一金メダルを獲得した選手がいます! 1932年ロサンゼルスオリンピックに障害飛越に出場した西竹一選手は、高難度の障害物を軽々とクリアし並み居る欧米選手を押しのけ優勝!! 当時のオリンピックは馬術の障害飛越が大会の最終競技として行われるのが通例で、障害飛越で優勝した西選手は真のオリンピック勝者として称えられ、「バロン(男爵)・ニシ」として世界の英雄となりました!!

馬術は今もなお優雅で紳士なスポーツとして知られていて、王族が参加し話題になることもしばしば。日本でも馬と接する環境が増えていけば馬術の向上にもつながるかもしれませんね。

「鳥人」と呼ばれた陸上界のスターも涙を呑んだオリンピックの重圧

©Getty Images

かつて陸上界で「鳥人」と称えられた選手を覚えていますか? ウクライナ出身で棒高跳びの世界記録を35回(屋外17回・室内18回)も樹立したセルゲイ・ブブカ選手。彼が1994年に屋外大会で記録した6m14cmは未だに破られておらず、1993年に樹立した室内世界記録の6m15cmは、2014年に破られたものの歴代2位に輝いているという今も栄光に彩られたスーパースターの一人です!

世界陸上の第1回ヘルシンキ大会からアテネ大会まで6連覇の偉業を果たし、その間で世界記録を次々と更新! 陸上界に一時代を築いてきたブブカ選手においては、オリンピックでも輝かしい活躍を見せてきた!!、かのように見えるのですが、実は彼ほどオリンピックに縁遠い選手はいません……。

1984年のロサンゼルス大会はソビエト連邦がボイコットしたため出場できず……。1988年のソウル大会では5m90cmで金メダルを獲得しますが、自身の世界記録の6m06cmは更新できませんでした。そして連覇をかけた1992年のバルセロナ大会、ブブカ選手は違った意味で名を馳せてしまいます。金メダルはもちろん、6m11cmの世界記録の更新がなるかという大きな期待を背負っていたブブカ選手は手始めに5m70cmからスタート。本人にとっては余裕でクリアできる高さでしたが、なんと失敗してしまいます!

実はこの時、ブブカ選手は競技時間の締め切りを失念していたのです。棒高跳びでは、審判に名前を呼ばれて2分以内に助走を開始しなければ失格となってしまいます。ブブカ選手は前の選手が跳躍をパスしたことに気付かないまま時間を過ごしていると、直前になって残り時間が少ないことを認識します。慌てて競技に挑むも失敗に終わります。これでイライラが溜まってしまったブブカ選手は敢えてバーの高さを5cm上げ、集中する時間を費やす作戦をとりますが結局最後の試技も失敗。全世界が嘆きのため息に漏れ、記録なしという期待外れの結果となってしまいました……。

その後の1996年アトランタ大会では両足のアキレス腱に痛みを抱えたため予選を棄権。彼にとって最後のオリンピックとなった2000年シドニー大会でも5m70cmの試技をクリアできず記録なしに終わったブブカ選手。4年に一度のオリンピックだけは、特別なくさりが彼の羽根を縛り付けていたのかもしれません。

初の日本人選手のマラソン記録は、「54年8カ月6日5時間32分20秒3」?

©Getty Images

日本が初めてオリンピックに登場した1912年(明治45年)の第5回ストックホルム大会。この大会では2人の日本人選手が参加しました。一人は陸上100m・200m・400mに出場した三島弥彦選手。そしてもう一人はマラソンの金栗四三選手。2人は船で17日間かけてスウェーデンへと向かい、日本スポーツ界を代表して新時代の幕開けの責務を担ったのでした!

しかし世界の壁はそう簡単に風穴を開けさせてくれません。短距離に出場した三島選手はまず100mに出場するもトップから約10m離れ最下位。その4日後の200mでも最下位に沈み、結果を残せませんでした。そして最後の400m。予選にエントリーした5人中3人が棄権し、レースはスウェーデン選手と競うことに。三島選手は200m地点まではリードを奪いましたが、その後逆転され2位でフィニッシュ。ルールでは上位2選手が準決勝に進出することができるのですが、日本からスウェーデンまでの移動と、連戦を重ねてきた体は悲鳴をあげてしまいあえなく棄権。レース後、海外選手との体格差や記録の差を痛感した三島選手は同僚の金栗選手に対し「日本人にはやはり短距離は無理なようだ」と伝え、意気消沈した様子だったとのことです……。

三島選手の分までという思いでマラソンに参加した金栗選手は、日本に残された最後の希望の星でした。日本での代表選考会では25マイル(約40.2km)を2時間32分45秒で走り切り、当時の世界記録を27分も短縮する大記録を残した金栗選手。オリンピックでは同じ距離で行われ、石畳の多い難コースに立ち向かいました。当日はストックホルムでは珍しく灼熱の太陽が昇り、参加者が次々にリタイアしていく中、金栗選手は途中で約20人のランナーを追い抜き先頭に追いつこうと力走します! 折り返しを過ぎた時、「いける!」と確信した金栗選手。しかしその直後、足の痛みが発生し急激にスピードダウン。その後も気合いで走り続けますが暑さで意識がもうろうとし、32km地点に達しようとした時、急に目の前が真っ暗となり倒れ込んでしまいました。

その時、沿道で観戦していた現地の農夫が金栗選手を自宅まで連れて行き介抱。数時間後、ベッドの上で目を覚ました彼は完走できなかったことを知るのでした。しかし翌日の新聞には金栗選手の記事が大きく報道されることとなります。出場した選手が突如としていなくなったからです。農夫に介抱されたことを知らなかったIOC(国際オリンピック委員会)は金栗選手を必死に探すも見つけることができず、「消えた日本人」と報道されてしまったのでした。農夫の服を借りて宿舎へと戻ってきた金栗選手は、周りが無事を喜ぶもすっかり気落ちした様子で帰国の途に就くのでした。しかし、金栗選手のレースは実はまだ終わっていなかったのです。

大会から55年後の1967年。招待を受けた金栗選手は再びストックホルムの地に訪れ、素晴らしいサプライズを受けたのでした。スタジアムを訪れた金栗選手は、大勢の観客が見守る中、ゴール地点に用意された白いテープを切るとアナウンスが流れ、「日本の金栗選手がついにゴールイン。これにてストックホルム大会の全日程の終了を宣言します」と粋な計らいを受けたのでした。(公式記録は、54年8カ月6日5時間32分20秒3)

「この間に孫が5人もできました」とユーモアを交えて答えた金栗選手は、ストックホルムが悲しみの地から喜びの場所に変わったことを伝えると会場は大きな拍手と歓声に包まれたのでした。

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