東京五輪2020

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オリンピックは日本を変えるの? 1964年東京オリンピックが遺した“レガシー”

2018年9月18日 14:36配信

東京2020オリンピックの開催準備にあたって“レガシー”という言葉がよく聞かれます。これは、終戦からの復興となった1964年の東京オリンピックが、私たちの生活を向上させるような多くのレガシーを残してくれたことと無関係ではありません。

いまでは当たり前になっていることで、1964年大会をきっかけに変わったことが実はたくさんあります。あなたは知っていましたか? 親子であらためて知りたい“レガシー”へご案内――。

(文=大塚一樹)

©Getty Images

“夢の超特急”新幹線はオリンピックのために整備された?

1964年のレガシーといえば、日本武道館や国立代々木競技場、現在建て替え中の国立競技場など、オリンピックに合わせて建てられた建築物が思い浮かびますが、戦後復興を世界に向けてアピールしたい日本が威信をかけて開催したオリンピックだけに、会場だけでなく移動手段の整備も進みました。

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オリンピック開幕に合わせて、1964年10月1日に開通したのが、日本が世界に誇る高速鉄道、新幹線です。それまで特急電車でも6時間以上かかっていた東京―新大阪間を、時速210km、3時間10分で結ぶ東海道新幹線はまさに「夢の超特急」。開発から工事までわずか5年という短期間で成し遂げられた驚異的なプロジェクトでした。

海外からのゲストをお迎えするのに、当時の空の玄関口、羽田空港の整備拡張も行われました。同時に整備されたのが、羽田から都心へのアクセスを大幅に改善する「東京モノレール」でした。9月17日に浜松町―羽田間で開通した東京モノレールは、日本で最初の本格的な交通機関としてのモノレール路線でした。路線全長13.1キロは当時の世界最長記録。当時の運賃は現在の子ども料金と同じ250円だったそうです(現在の大人料金は490円)。高所を走るため空間を有効活用できるモノレールは都市部の密集地に最適ということで、1970年の大阪万博の場内交通網としても採用されました。

首都高、名神を生み、高速道路網の整備が加速

鉄道に変わって移動手段の主役になった自動車のルート確保も急務でした。オリンピックに向けては都内のあらゆるところで地面を掘り返しての工事が行われていたそうです。メイン会場となる代々木、駒沢など渋谷区、世田谷区の道路が整備され、マラソンコースに採用された国道20号線、甲州街道も急ピッチで進められました。

オリンピックによって東京の交通網の利便性が上がり、その後の交通や流通に大きな影響を与えたことは間違いありませんが、なかでも『首都高速道路』の開発が進んだことは大きな出来事でした。

首都高が開通したのはオリンピックの2年前の1962年。東京に高速道路網を敷くという構想は、戦前から存在していたようですが、計画が実現し、そのスピードが加速したのはオリンピックの開催あってのこと。京橋―芝浦間の4.5㎞でスタートした首都高は、オリンピック開幕直前には都心環状線浜崎橋JCTが完成し、羽田空港までのルートがほぼ高速道路化されることになります。

高速道路といえば、名神高速道路の開通も東京オリンピックのもたらした大いなる遺産です。1963年7月16日に開通した名神高速道路 栗東IC―尼崎IC間は、日本初の高速道路として、大きな話題を集めました。本来であれば東京と名古屋を結ぶ東名も含めた東京―名古屋―大阪のルートが必要とされていたのは間違いありませんが、明石山脈を貫通するトンネル技術への不安などからルート選びが難航し、「西から着工」ということになったそうです。名神高速道路は、1964年9月6日には一宮―西宮間が開通しています。

おもてなしは言葉を越えて ピクトグラム

多くの外国人が詰めかけることが想定されたオリンピックでは、「言葉の問題」が心配されていました。公共交通機関などに英語や中国語、韓国語の表示やアナウンスが当たり前になった現在とは違い、外国人を想定した用意はほとんどなく、オリンピックの応援にやって来た外国人にどう対応するかが問われたのです。

「言葉がわからなくても伝わる表示はないか?」

そんな発想から生まれたのが『ピクトグラム』でした。絵で物事を伝えるという表現方法は、それこそ有史以来行われてきた行為ですが、ピクトグラムが広まったのは、1964年の東京オリンピックが最初だったといわれています。文字がなくてもそれとわかり、男女の区別も一目でできるトイレのピクトグラムは実は日本が発祥。東京オリンピックに向けて11人のデザイナーが集められ、デザインが練られました。この時つくられたピクトグラムの著作権は、社会に還元すべきものだということで放棄され、世界に広まったとされています。

ユニットバス誕生もオリンピックきっかけだった

多くの外国人に対応するのに大あらわだったのは、観光客の受け入れ先となるホテルも同じでした。宿泊施設の不足は深刻で、オリンピック委員会と政府から依頼を受けた大谷重工業社長の大谷米太郎が、『ホテルニューオータニ』の建設を開始します。

東京都千代田区紀尾井町に健在のホテルニューオータニは、オリンピックに間に合うように17カ月の工期で建てられることになりました。その時間不足を解消するために生まれたのが『ユニットバス』です。東洋陶器(現・TOTO)が開発したユニットバスルームは、省力化に大いに貢献します。便器、洗面器、浴槽といった水回りは防水工事を必要とする手間のかかる仕事。ユニットバスは全体が強化プラスチック(FRP)の箱でできており、プレハブのようにそこにはめるだけで完成します。

日本の住宅の標準装備ともいえるユニットバスですが、東京オリンピックの宿泊施設不足、工期短縮のために開発されたことを考えると、「必要は発明の母」という言葉は真理なのかもしれません。

競技を伝えるメディアセンターでも、最新の技術が使われました。1964年の東京オリンピックではコンピューターによるリアルタイムの競技速報がオリンピック史上初めて導入されました。いまでこそ、リアルタイム速報は当たり前ですが、インターネットもスマホもない時代。日本IBMの技術士たちが、デジタル方式の伝送技術から、いかにリアルタイムの結果速報を出すのかのソフトウェア部分まで開発したといいます。

選手村の警備で名を上げた民間警備会社

あまり知られていませんが、日本初の民間警備会社も東京オリンピックによって世の中に広く知られるようになりました。日本警備保障(現・セコム)は、東京オリンピックの選手村の警備を担当。創業は1962年ですが、当時は民間の警備会社という概念がまったくなかったため、ほとんど契約が取れない状態でした。自衛隊の警備だけでは人員不足になると、選手村の警備が委託され、この実績によって日本警備保障は大きく世の中に名を知られるようになりました。

ちなみにもう一つの大手警備会社、ALSOK(綜合警備保障)の創業者は、東京オリンピックの組織委員会事務局の次長を務めていた人物。2020年には、セコムとALSOKの2社がセキュリティサービス&プランニング部門のオフィシャルパートナを務めます。本来オリンピックのスポンサーは、一業種一社が原則ですが、このカテゴリーについては特例として2社都の契約ということになっているそうです。

そのほか、東京の美化の目的で250台のゴミ収集車が導入され、ポリバケツが普及したり、選手村で大量の食事を提供する際のマニュアルとチーム作業が外食産業のセントラルキッチンの元になったり、1964年がその後の日本に与えた影響は計り知れません。

開催まで2年を切った2度目の東京オリンピックでは、どんな変化が生まれ、何がレガシーとして遺っていくのでしょう。

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