東京五輪2020

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あの人は今…?五輪メダリストの現在を追跡する!⑤日本フェンシング界のレジェンド太田雄貴は、“改革者”として東京2020に臨む

2018年11月1日 11:09配信

過去に活躍した五輪メダリストの現在を探る『あの人は今…?』シリーズ!

第5回目で登場するのは、2008年の北京大会で日本フェンシング史上初となるメダル(銀)を獲得した、太田雄貴さん。続く2012年のロンドン大会でも史上初となる団体銀メダルを、2015年の世界選手権では悲願の金メダルを獲得しました。

日本フェンシング界においてまさにレジェンドともいうべき存在の太田さんは、現役引退後に何をしているのでしょうか。現在の太田氏の活動を知るとともに、彼のキャリアを振り返ります。

(文=池田敏明)

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日本フェンシング界の改革を推し進める若き会長

オリンピックで実施される競技の中には、日本での競技人口が少なく、環境面や資金面であまり恵まれていないものもあります。フェンシングもそういった競技の一つでしょう。ところが現在、日本のフェンシング界は急速な改革が推し進められています。その先頭に立っているのが、2017年8月に31歳の若さで日本フェンシング協会会長に就任した太田雄貴氏です。

名前を聞いてピンとくる方もいるかもしれません。太田氏は2008年の北京オリンピックで「フェンシング男子フルーレ個人」という種目に出場し、日本フェンシング界初の五輪メダルを獲得した、日本を代表するフェンシング選手でした。2016年のリオデジャネイロ大会終了後に現役引退を表明すると、同年11月には国際フェンシング連盟の理事に就任。2017年6月からはアジアフェンシング連合アスリート委員会委員長も務め、多忙な日々を送っています。

太田氏は会長に就任すると、フェンシング人気を高めるため、そして国内での競技人口を増やすために、さまざまな改革に乗り出しました。最初に改革を施したのは、毎年12月に開催されている全日本選手権です。床にLEDパネルを設置し、打突と発光を連動させることでポイントが入ったことを分かりやすく伝えるようにしたり、場内ラジオを貸し出して競技解説を聞けるようにしたりと、改革は21点にも上りました。フェンシングにはエペ、フルーレ、サーブルの3種目があり、これまでは各競技が1日で完結するスケジュールでしたが、昨年の大会では最終日に各競技の決勝を実施する日程に変更しました。これにより、最終日の観客はその前年の約150人から約1600人へと激増。興行としては大成功に終わりました。

勢いはその後も続いています。今年の大会のチケットは9月1日に発売が開始されると、わずか50時間弱で完売しました。従来は体育施設で行われていましたが、今年の会場は東京グローブ座。普段は演劇やミュージカルを上演している劇場です。音響や照明などさまざまな演出設備がある会場なので、昨年の大会以上に華やかな演出を準備していることでしょう。

また、太田氏は競技の普及を目指し、現役の選手とともに全国の小・中学校を訪問して競技を体験してもらうイベントを定期的に開催しています。太田氏自らが競技を解説し、選手たちがデモンストレーションを行い、代表の児童・生徒や教員の方々によるチャレンジマッチまで実施してしまうこの活動を、年間10回ほど実施しているそうです。日本トップクラスの選手たちのパフォーマンスを間近で見学し、実際に装備を身に着けて試合もできるこのイベントは常に大盛況。実際に参加した子どもたちにとって、フェンシングは少し身近なスポーツになったことでしょう。

現在、日本フェンシング協会の登録者数は約6000人。太田氏はこれを「5万人に増やしたい」という野望を抱いています。現状では競技施設が少なく、初期投資にそれなりの費用がかかることもあって、なかなかハードルは高いと思いますが、会長就任以来、1年間でさまざまな改革を施している太田氏の手腕があれば、いずれ達成されるかもしれません。

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“ニート剣士”が現役時代に成し遂げた数々の偉業

今でこそさまざまな肩書を持つ太田氏ですが、現役時代の2008年には“ニート王子”や“ニート剣士”という、少しネガティブな印象のあるニックネームで呼ばれていました。高校時代に全日本選手権を制し、大学1年次の2004年にはアテネオリンピックに出場(9位)するなど、当時から日本を代表するフェンシング選手だった太田氏は、この年の3月に同志社大学を卒業した後、2008年北京大会に向けてトレーニングに専念する日々を送りました。普通なら一般企業に就職し、サポートを受けながらトレーニングに励むものですが、太田氏はそれでは十分な練習量を確保できないと判断し、あえてどこにも所属をせず、1日8時間のトレーニングを続けていたのです。それゆえ“ニート剣士”。北京大会出場時の所属先は「京都クラブ」となっていましたが、これは「無所属」では格好悪いと太田氏自らが立ち上げた便宜上の所属先です。とにかくそれだけの覚悟でフェンシングに打ち込んだ結果、彼は北京大会で銀メダルを獲得することになったのです。

大会後、太田氏の元には10社以上から就職のオファーが舞い込み、その中から森永製菓を選択します。11月1日に入社し、晴れて“ニート”を卒業することになりました。その後も彼の挑戦は続き、翌2009年には森永製菓所属のまま、フランスのクラブチーム「エクス・アン・プロヴァンス」に期限付き移籍。フェンシングの本場であるヨーロッパで腕を磨きました。そして2012年のロンドン大会では、男子フルーレ団体戦で日本史上初の団体銀メダルを獲得します。太田氏はまさに自らの剣で、日本フェンシング界の未来を切り開いてきたのです。

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東京2020オリンピックは、日本フェンシング協会会長として迎えることになります。彼は2013年、国際オリンピック委員会(IOC)に五輪招致プレゼンターとして登壇し、東京の魅力をアピールしてくれました。開催地が東京に決定した瞬間に渾身のガッツポーズを見せ、涙を流して喜びを分かち合うシーンも印象的でした。ご本人にとっても思い入れの強い東京2020オリンピック、どのような選手を派遣し、どんな成果を見せてくれるのでしょうか。

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