東京五輪2020

アスリートインタビュー

ブラインドサッカー日本代表のエース、川村怜。東京2020の命運を握るキャプテンの矜持

2018年9月28日 20:39配信

©浦正弘

パラリンピックの花形競技の一つ、視覚障がい者5人制サッカー(ブラインドサッカー)。視覚障がいの中でも最も重い全盲クラスの選手たちが、視覚以外の情報を駆使してピッチを縦横無尽に躍動する。世界の舞台を席巻するのは、ブラジル、アルゼンチンといった南米勢に加え、イラン、中国といったアジア勢も強力だ。そんな中、2020年に初めてパラリンピックのピッチを踏む日本代表。2016年からキャプテンを任され、エースナンバーである10番を背負う川村怜選手に、現在の代表チームの座標と、自身のバックグラウンドについて聞いた。(取材・文=吉田直人)

サッカーへの傾倒と陸上競技への転向

――小学校時代はサッカー、中学、高校と陸上競技、そして大学でブラインドサッカーと出会っているわけですが、最初にサッカーを選択したのは何かきっかけがあったのですか?

「当時はJリーグが開幕してサッカーが盛り上がっていました。同級生に影響されてチームに加わったのがきっかけでしたね」

――当時のポジションとプレースタイルは?

「右サイドで、どちらかというと守備が好きだった記憶があります。パサーでもなく、ドリブラーでもなく、今とは全然違うプレースタイルでした。小学校時代のサッカー仲間とたまに話すと『そんなにうまかったっけ?』と言われます(笑)」

――中学校で、陸上競技に転向。高校まで続けていますね。

「1998年にフランス・ワールドカップもあって、徐々にサッカーを好きになり、ゴンさん(中山雅史)に憧れて、将来の夢はサッカー選手でした。中学に上がって友達は皆サッカー部に入りましたが、僕にとって、フルコートでのサッカーは難しくなっていました。空中戦も増えてきて、体も小さかったし、視力的にも厳しかった(※)。チームのレベルも高かったので、自分でも『厳しいかな』という実感もありましたし、顧問の先生にも『難しいんじゃないか』と言われて、諦めました。でも運動はしたかったので、陸上部。種目は中距離走でした。走るのは好きでしたし、仲間にも恵まれて良い青春時代でした」

(※5歳の時にぶどう膜炎を発症し、7歳頃から視力が著しく低下。2013年に全盲と診断後、同年ブラインドサッカーの日本代表に招集されている)

――サッカーを諦めざるをえない状況になった時の心境は?

「葛藤はありました。どこかで夢を諦めきれない自分がいて、休み時間もサッカーをして、陸上の練習でもレアル・マドリードとかACミランのレプリカ・ユニフォームを着て走って(笑)。Jリーグや日本代表戦は必ずテレビで観戦していました。ただ、陸上での経験はピッチ上の運動量として今に生きていると思っています」

写真提供:日本ブラインドサッカー協会

ファーストコンタクトは「近くでどうぞ」

――大学(筑波技術大学)進学後、ブラインドサッカーと出会います。あらためて当時を振り返っていただけますか。

「入学して学校のグラウンドを通りかかったら、サッカーやってるなと。遠くから見ていたら『近くでどうぞ』と言われて、グラウンドの中に入れてもらいました。アイマスクをした選手が、ドリブルをして、見えているキーパーからシュートを決めていたんです。その姿を見てすごく衝撃を受けて、自分もやりたいなと。またサッカーをできるというワクワク感もありましたし、このサッカーで自分も誰かに衝撃を与えたいという思いが大きかったです」

――その場でもう「やります」と?

「いや、ちょっと考えました。でも、ボールを触って、アイマスクを着けてプレーして、少しずつ仲間に入れてもらった感じです。今、自分の所属チーム(アヴァンツァーレつくば)の田村友一さん(元ブラインドサッカー日本代表)が、当時は現役バリバリで、最も影響を受けました。“師匠”というか、自分の中で大きな存在です。今でも超えられた実感は無いですし、田村さんがいたから、向上心や探究心が芽生えた。彼の全盛期と比較して、どれだけやっても超えられないなという感覚はありますね」

――いっとき、ブラインドサッカーから離れた時期もあったということですが。

「アイマスクを着けてプレーすることに対する恐怖心が消えなかったこと、それもあって覚悟を持ってピッチに立てなくなったことが理由です。中途半端な気持ちでピッチに立ってケガをするのも嫌でしたし、後悔すると思った。引き止めてくれる人もいましたが、自分で決めたことだったので」

――復帰のきっかけは?

「競技から離れて、皆のプレーを客観的に見ながら、自分だったらこうするなと、違う角度からイメージが膨らんできたんです。最後の決め手は、2009年末のアジア選手権の日本対中国の試合。中国の強さの前に、日本代表がまるで歯が立たなかった。そこで火がついたんです。代表を目指して、中国に勝ちたい、と。離れる前よりも大きな覚悟を持つことができた。吹っ切れた感覚はありますね」

――2013年に全盲の診断を受けて、その年に日本代表に初招集されました。デビュー戦となったブラジル戦で初得点。中国よりも上に立つチーム(※)を相手に得点した時の印象は?

「2点先行された中での得点でしたし、結果は負けなので……。相手がどうこうより、代表デビュー戦で得点して、これでスタートラインに立てたな、という思いでしたね。『日本代表には川村がいるぞ』と自分の存在感を表現できた。そんな気持ちでした。一方で、そんなに甘くないという感覚もあったので、結構冷静ではありましたね。まだ何も成し遂げてはいませんでしたから」

(※ブラジルは2004年にブラインドサッカーがパラリンピックの正式競技に採用されて以降、2016年のリオ大会まで4連覇を果たしている)

手応えを掴みつつある“高田ジャパン”

――2016年のリオ・パラリンピックは出場を逃しましたが、その後、日本代表の指揮を執ることになった高田敏志監督のスタイルも定着しつつある中、5月はベルギー遠征でイラン(リオ大会準優勝)に勝利、7月はチーム(アヴァンツァーレつくば)として日本一になって、8月は南米遠征でブラジル、アルゼンチンに初の引き分けに持ち込みました(遠征結果:2分2敗)。課題がありながらも、おおむね順調と見受けられます。ご自身のプレーと、日本代表の立ち位置を見てどのように感じていますか。

「7月までは、これまでの取り組みが成果として表れてきたという実感があって、プレーの感覚も良く、順調と思える時期が続いていました。ただ、南米遠征では、世界1位(ブラジル)、2位(アルゼンチン)とアウェーで試合をして、引き分けもありましたが、それ以上に相手の強度、圧力を肌で感じました。無得点は大きな課題ですし、攻撃が機能した、相手を崩した、という実感が少ない。エース級の選手以外でも、対峙すると一段上に感じて、取り組むべきことはまだ多いなという思いで帰国しました」

――高田監督のもと、決定力には課題が残るものの、ルーズボールのキーピングなど改善点も見られます。結果、失点の抑制にも寄与していると思いますが。

「高田監督は、データを大事にしながらロジカルに戦術を組み立てていくので、最初は、見えない選手にそんなことができるのかという不安もありましたが、練習を積むうちに成長していく実感があって、今まで勝てなかったチームに勝てたりとか、試合でも形として表れています。進んでいる方向は間違いじゃないんだと確信を得られるようになってきて、選手たちも自信を持ち始めています」

――チーム内のコミュニケーションに関して意識している点はありますか?

「視覚障がいを持った時期や、バックグラウンドが選手によって違うので、戦術の理解度も人それぞれです。まず僕がキャプテンとして戦術を理解した上で、選手や、晴眼者のゴールキーパーと細かくコミュニケーションを取りながら理解度を深めていく。2016年にキャプテンに任命されてから、自分が背中で引っ張っていくという意思はありますね」

©浦正弘

挑戦、挑戦、そして挑戦。

――東京2020パラリンピックではメダル獲得が大きな目標になってくると思います。キャプテンとして、エースとして、どんなことを思い描いていますか。

「プレーの精度が大切だと思っています。プレッシャーをかけられた状態でも、正確なプレーをやり抜くことで、相手陣地でのプレー時間も増えますし、シュートチャンスも増える。そこから先も精度の高いシュートを打ち切って、得点力を高めていく。すると、世界一も見えてくるんじゃないかと。11月4日のアルゼンチン戦、来年のワールドグランプリ(※)も含めて、海外のチームと試合をする機会が何よりも成長できるチャンスです。準備をしっかりして、一つひとつの試合で、これまで蓄積してきた全ての力を出し切りたいと思います。その積み重ねが、メダルにつながっていくはずです」

(※IBSAブラインドサッカーワールドグランプリは、2019年3月19日〜24日まで天王洲で行われる国際公認大会。第1回となった今年3月の大会では日本代表を含む6カ国が出場し、のべ3000人以上の観客が来場した)

――川村さんには今まで、障がいの進行や、競技転向や復帰などさまざまなターニングポイントがあったと思います。進む方向を選択する上で、ご自身の考えのベースや指針として重視していたものはありますか?

「“常に挑戦”という思いは強かったです。挑戦、挑戦。自分が成長するために、恐れずに挑む。そういった気持ちはすごく強かったです」

――その背景として影響を受けた出来事や人の存在はありますか?

「これといって選べないほどたくさんありますが、先輩の存在は大きかったです」

――ブラインドサッカーはファンも多いですが、ご自身のプレーを通じて伝えていきたいことは何ですか?

「いちアスリートとして、人間として、誰かに影響を与えるような存在でありたいです。他競技の選手や、健常者の方からも、いろいろな人から目標とされる人間になりたい。僕が自分を表現できる場所はピッチの上なので、普段の練習や日常を大切に過ごしていきたいと思っています」

――2020年は個人的にどんなプレーに注目してほしいと思っていますか

「ピッチの中で誰よりも躍動している姿です。ドリブル、パス、シュート、全てにおいて」

――最後に、ブラインドサッカー日本代表の見どころをお願いします。

「見えない選手たちが、見えているGKやガイドとコミュニケーションを密に取ることで、細かなポジショニングや戦術を体現していくところです。見えなくても、会話の工夫でこれだけ動ける、これだけのことができる、ということに注目してほしいと思っています」

<プロフィール>

川村怜(かわむら・りょう)

1989年生まれ、大阪府出身。アヴァンツァーレつくば所属。5歳でぶどう膜炎を発症、その進行により視力が低下。小学校から始めたサッカーから一度離れるも、大学でブラインドサッカーと出会う。全盲と診断された2013年にブラインドサッカー日本代表に初選出、デビュー戦でブラジルからゴールを奪う。2014年ブラインドサッカー日本選手権MVPに選出。2016年より日本代表キャプテンを務める。

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