dmenuスポーツ

東京五輪2020

アスリートインタビュー

「続ければ何かが変わると信じている」。元バドミントン選手・河合紫乃が車いすフェンシングで飛躍狙う

2020年3月27日 12:26配信

記事提供:

©高木遊

下肢に障がいのある人を対象とする車いすフェンシング。「ピスト」と呼ばれる装置に固定した競技用車いすに座り、上半身だけで競技するが、それ以外のルールは相手を剣で突くとポイントになるなど健常者のフェンシングとほぼ同じだ。

そんな競技に、バドミントンの国内最高峰のリーグ戦もプレーした河合紫乃が思わぬ形で負った障がいを機に転向し、東京パラリンピック出場、パリパラリンピックでのメダル獲得を目指して奮闘している。

<取材・文・写真=高木遊>

「なんで私なんだろう?という気持ちは今もあります」

――幼少期はどんな少女だったのですか?

「もう負けず嫌いで、バドミントンのことしか考えていないような子でした。やるからには絶対負けたくない、優勝したいという一心でした」

――バドミントンとの出会いはどのようなものだったのですか?

「小学校のクラブチームが夏にバーベキュー、冬にスキー合宿があって、最初はそれだけのために入りました(笑)。やり始めたらハマっていきました」

――バドミントン時代の強みはどんなところだったのですか?

「センスは無かったので人より努力しましたし、人よりパワーがもともとあったので、それだけは負けないようにとトレーニングしていました」

――そこから実業団までバドミントンを続けるわけですが、それは楽しめる物でしたか?それとも辛いことが多かったですか?

「高校は強豪校だったので辛くて辛くて。先生がすごく厳しくて、トレーニングばかりの日々でしたし、大学も厳しかったですね。実業団の時は社業との両立も大変でしたが、負けず嫌いで続けてきました」

――そして、富山商では全日本ジュニア5位入賞、法政大では団体優勝2回、日本最高峰の日本リーグ(現S/Jリーグ)に所属する北國銀行でもプレー。しかし、社会人2年目(2015年)12月を機に一変してしまうんですよね。

「股関節の手術をしたんですけど、そこから1年4ヶ月ほど入院して。そこから歩けなくなって。国が未指定の難病であることがわかったんです。(原因は)手術を繰り返したことによる後遺症ですね。手術の同意書に書いてある“もしかしたら何万人に一人・・・”というものに該当してしまいました」

――そこから障がいを負うことになり、車いすフェンシングと出会うまでの3年間はどのようなものだったのでしょうか?

「すごく痛い病気で3年間は寝たきりの生活でした。練習は苦しくても目標がある生活だったのに、ガラッと変わってしまって。生きている意味も感じられませんでした。現実を受け入れられない自分がいました。どんどん痩せてもいきましたし、なんで私なんだろう?という気持ちは今もあります」

「もう一度輝きたい」

――その苦しい日々から一歩踏み出せたのはなぜですか?

「やっぱりこの生活から抜け出したい、変わりたいという思いですね。あとは大学の後輩の田中志穂(北都銀行所属)がスーパーシリーズファイナルズ2017の国際大会で優勝したのを見て心が動かされました。“私ももう一度輝きたい”って。それで最初はパラバドミントンをやろうと思ったのですが私の障がいは対象外だったので、インターネットで車いすフェンシングを見つけました」

――初めて競技をされた時はいかがでしたか?

「バドミントンと同じ対人競技だったことが魅力で始めたのですが、握力が8キロまで落ちていたので最初は1キロも無い剣(健常者用と一緒)を持つことすらできませんでした。3分も持ちませんでしたね」

――そんな状況から五輪候補にまで成長を遂げたんですね。

「当時の監督からは“やめた方がいいよ”と言われたのですが、それでも“やります”と。やっぱり負けず嫌いなんです。諦めたら自分の負け。続ければ何かが変わると信じているので」

――車いすフェンシングと出会ってからの日々はいかがですか?

「もう毎日が楽しいです。特に昨年11月から東京に引っ越してナショナルトレーニングセンターで日々、専属コーチのもとで練習できますし、海外の大会でも結果を残せるようになってきたので」

――現在の武器と課題はどんなことですか?

「課題は、私は(障がいによって分けられるクラスが)カテゴリーAなのですが、その中にいる中国人選手はスピードとパワーがあります。そこで男子の選手とも練習しているのですが、それでもまだ足りません。あとは相手の嫌なところを突くとか逆を突くとか戦術が課題です。でも、そこが面白いところでもありますね。やっぱり毎日の積み重ね、諦めずに継続すれば何か変わると思うんです」

――東京生活はいかがですか?

「大変ですね。でも育った富山に比べたらバリアフリーも進んでいますし、何でもあるので一番暮らしやすいですね」

――やはりまだ地方の方ではバリアフリーは進んでいませんか?

「そうですね。やっぱりまだ富山でバリアフリーは進んでいませんし、練習環境も整っていなかったり、相手もいなかったり、と大変ですね」

――東京で大変なことはありますか?

「大変なところ・・・うーんそうだな、誘惑が多いところですかね(笑)。欲しいものが周りにいっぱいあるの、アレも欲しいコレも欲しいとなっちゃいますね」

――ご趣味はあるんですか?

「釣りが好きですね。あとはカフェ巡りとか好きですね。でも、練習が毎日あって、海外遠征も続いていたので、11月に東京へ来てからまだ落ち着いた時間はありません」

――練習は、ほぼ毎日なんですか?

「はい。私の場合はオーバーワークして止められちゃうくらいですね。今は肋骨が折れているので抑えています(※取材当時)。たぶん止められなかったら、やってしまうというか、やらないと落ち着かないんです。そういったメンタルのコントロールがまだできていない部分はありますね」

©河合紫乃

たくさんの人に笑顔や元気を

――海外での食事とかはどうですか?トライアスロンの選手から「どこでも食べられて寝られる選手は強い」との話を聞いたことがあるのですが。

「私は苦労しています(笑)。韓国とオランダとハンガリーへ行ったのですが、オランダはしょっぱいというか味が濃くて。オランダでは毎回おなじ食事で…」

――そうなると、食事面はどのように克服しているんですか?

「もう、日本から持って行っていますね。ゼリーとかお湯を注いだらできるものですね」

――バドミントン時代にはできなかった海外遠征をできている今の状況はどのように捉えていますか?

「それは凄く思いますね。病気を受け入れられなくて“なんで私?”とは思うのですが、今こうやって目標を持って頑張っていられるので、病気になって良かったなって思っています」

――東京パラリンピックでは、どんなことを目標に置いていますか?

「まだ出られるか分からないのですが、もし出るとなった場合はいろんな人から応援されて結果を残したいという気持ちが強いです。そして次の2024年パリ大会でのメダル獲得を目指したいです」

――今後、競技を通して発信していきたいことはどのようなことですか?

「まずはやっぱりこの競技をもっと知ってもらいたいので、私が活躍することでもっと取り上げてもらってメジャーなのものにしたいですね。そしてたくさんの人に笑顔や元気を届けていきたいです」

――ご自身の中でヒーローやヒロインはいますか?

「やっぱりバドミントンしていた時はオグシオさん(小椋久美子・潮田玲子ペア)ですね。バドミントンではS/Jリーグに出ることが夢で、それは叶ったので、次はこの競技を広めたいです。車いすフェンシングって車椅子を固定する競技用のピストが150万円くらいしますし、東京と京都にしか無いんです。ハンガリーのような欧州の国ではメジャーでピストがたくさんあるんです。日本もそんな国になればなと思います」

©高木遊

[PROFILE]

河合紫乃(かわい・しの)

1992年3月26日生まれ、富山県富山市出身。小学2年生からバドミントンを始め富山商や法政大、北國銀行でプレー。だが、股関節の手術の後遺症で両下肢機能不全、左下肢不全麻痺に。2018年から車いすフェンシングを始めたばかりだが2019年11月のW杯では3勝を挙げるなど急成長中。今年4月からは株式会社富山環境整備に所属。座右の銘は「能力の差は小さいが努力の差は大きい」。

インタビュー一覧に戻る

トピックス

競技一覧
トップへ戻る