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東京五輪2020

アスリートインタビュー

金メダル以外は許されなかった生活。元バレーボール選手の大林素子が語る当時の思い

2020年4月8日 11:54配信

©小笠原大介

(文=田中夕子、写真=小笠原大介)

――大林さんがバレーボールを始めたきっかけを教えて下さい。

始めたのは中学1年生の時です。小学校4年生で学校のクラブ活動があり、そこで一度バレーボールクラブに入りましたが、5年生の時はバドミントン、6年生はソフトボールだったので本格的に始めたのは中学に入ってから。
ただ、小学校4年生の時にアニメ「アタックNo.1」を見て、その時に「私もバレーボール選手になる」と決めてはいました。

――小さい頃からもともとバレーボール選手が夢だったのでしょうか?

もともと私はアイドル歌手になりたくて、歌って、踊って、お芝居をして、というのが夢だったんです。でも子どもの頃から身長が高くて、幼稚園の頃から「ジャイアント素子」とか「デカバヤシ」とかいじめられて。
「お前みたいにデカい女はアイドルなんかなれないよ!」と捨て台詞を言われて一気に落ち込んで、実は、自殺したいと思って団地の11階から飛び降りようと靴を脱いだことも二度ありました。
「アタックNo.1」を見たのはちょうどその頃だったので、「いつか私もバレーボールでオリンピックに出て、いじめた人たちに復讐したい!」と思ったんです。
今でこそ復讐なんて言うと物騒ですけど(笑)、でも当時は本気で思っていましたね。バレーボールが好きだから、とか、ミーハーな憧れはなく、私の生きて行く場所がバレーボールだった。
いつかいじめた人たちに対して「ざまぁみろ!」と言うためにスタートしたのがきっかけでした。

©小笠原大介

――バレーボールは背の高さが武器になる競技でもあります。実際に始めてから気持ちの変化はありましたか?

4~5年かかりましたね。中1でバレーボール部に入ったのはいいけれど、レギュラーになったのは3年生になってからなんです。
背は高いけれど、運動能力や運動神経に長けていたわけではなかったので、ボール拾いとトレーニングがしんどくて入部して3日目ぐらいに練習をサボったこともありました。ただ大きいというだけで、逆上がりもできないし、飛込みもできない。
バスケットボールも背が高いからよくパスを受けるのですが、入れ方がわからないから入らない(笑)。体力もなかったし、アスリートとは言えなかったですね。

――とはいえ18歳で日本代表入り。バレーボール選手としての転機は?

日立の山田重雄先生との出会いです。私は小平市出身で、まさに日立の活動拠点は地元。江上(由美)さんに憧れていたので、江上さんにファンレターを書こうと思ったんです。
でも雑誌を見たら、1日に100通近いファンレターが届くと書いてあったので、これは読んでもらえない、と。ならば、と山田監督に「私は日立の江上さんのファンで、将来オリンピックに出たいです。中学2年生で左利き、身長は176㎝です」とアピールして、最後に「選手のサインを下さい」とお手紙に書いて出したんです。
そうしたら自宅へ山田先生から電話が来て「練習を見に来ませんか」と。当時は1984年のロス五輪代表選手が日立にはズラリと揃っていましたから、中学生の私にとっては夢のような世界。
「せっかく来たのだから練習していけば?」と山田先生に言われ、わけもわからぬままコートに入って、(中田)久美さんにトスを上げてもらったのですが、久美さんのトスが速すぎて追いつけない。空振りして睨まれたのを今でも覚えています(笑)。
1時間ほど一緒に練習をさせてもらって、全員のサインをもらい、久美さんも笑顔で一緒に写真を撮ってくれて、手紙を書いてよかった、と満足して帰ろうとしたら、山田先生から「大林君はまだ今のままでは使えないけれど、本当にオリンピックを目指したいなら明日から練習に来たら? 次のオリンピックには間に合うかもしれないよ」と言われたんです。
そう言われたら、実行あるのみ。翌日から部活を終えた19時頃から日立で練習をさせてもらうようになり、あれほどサボることばかり考えていた意識がガラッと変わりました。

――オリンピックを身近に考えるようになったのもその頃ですか?

そうですね。八王子実践高校で鍛えられ、日立に入って、オリンピックで金メダルを取ることが夢ではなく目標になりました。当時の日本の女子バレーはメダルを取るのは当たり前で、金メダル以外は許されなかった。
1964年の東京オリンピックで金メダルを獲った後、68年のメキシコシティ、72年のミュンヘンで銀メダルを獲って帰って来た選手に「よく銀で帰って来たな」と石を投げられた、という話も聞きました。金メダル以外はメダルじゃなく、2位も3位も負けだからビリと一緒。
金メダルを獲ること以外は許されない生活が当たり前だったので、大げさではなくすべてをバレーボールに捧げていたし、バレーボールに命を懸けていました。

©小笠原大介

――1988年のソウル五輪が大林さんにとって初めての五輪。当時の印象は?

浮かれる気持ちは1ミリもなかったです。24時間365日、すべてがバレーボールのためだったので、休みもないし、オリンピックが始まる時は「これから戦いが始まる」と引き締まる思いでした。
ただ、せめて髪型だけは大ファンだった松田聖子さんと同じ“聖子ちゃんカット”にしたかったので、朝起きてドライヤーで髪を巻いていたら、山田先生から「そんな時間があったらトレーニングしろ!」と叱られました(笑)。
オリンピックにはソウル、バルセロナ、アトランタと三度出場させてもらいましたが、一番色濃く残るのはソウル。東京オリンピックからずっとメダルを獲り続けて来た女子バレーが初めてメダルを逃した(4位)大会です。
3位決定戦で負けた瞬間は「このままでは日本に帰れない」と思いましたし「ここで死ぬしかない」と本気で思うぐらいの絶望感。
今でこそ、多くの選手が「自分のために楽しんで戦いたい」と言うこともありますが、当時の私たちにその感覚はなかったですね。すべてが生きるか死ぬか、の戦いでした。

――もしも現役選手として母国開催の東京オリンピックに臨む立場だったら、どんな覚悟を抱いていたと思いますか?

ソウルの頃と同じく、金メダル以外はダメ。負けたら死ぬ、それぐらいの覚悟だったと思います。
バルセロナの頃には世界の情勢も変わり、日本が勝つことは難しい状況でしたが、それでもソウルでメダルを獲れなかった分、一緒に戦ってきた久美さんや(佐藤)伊知子さんのためにも何としてでもメダルを獲りたかったけれど届かなかった。
世界との差を突き付けられた中で戦わざるを得なかったアトランタオリンピックも苦しい戦いでしたが、たとえ負けるとわかっていても最後まで戦い切らないといけない。なぜかと言えば、自分のためではなく、国の代表として日本のために戦わなければいけないから。
私は特攻隊や新選組の土方歳三が好きなのですが、自分のためではなく、人のため、国のために戦う、という姿勢に惹かれますし、私自身も自分のために戦うことは、引退するまで一度もなかった。
常に「勝たせるために頑張らなければいけない」と思って戦い続けてきました。そう言葉にすると苦しい選手生活のように思われるかもしれませんが、私はそういう生き方、考え方ができて幸せだったと思います。

©小笠原大介

――新型コロナウイルス感染拡大に伴い、東京五輪の開幕が2020年7月24日から2021年7月23日に延期されました。率直に、この決定についてはどう思われますか?

まず第一に、いろいろな立場によってそれぞれ意見も見方も異なることを大前提としつつ、これほど感染が拡大する状況では延期は妥当であり、当然だと思います。
この大会を集大成と考えていたベテラン選手や、まさにピークを合わせて来た選手、それぞれの感情や捉え方もさまざまであるのは当然ですが、決まった以上はどれだけ早く気持ちを切り替えて、前を向いてスタートが切れるか。
もちろんアスリートの立場から見れば、1年というのはとても長く、苦しい時間です。ベテラン選手に限らず、男子バレーボール日本代表、20歳になったばかりの西田有志選手も「モチベーションが落ちて、なかなか気持ちを上げられない」と落ち込んでいました。
私が現役時代も体育館の壁に「オリンピックまであと○日」と貼り、練習を終えるたびその紙を1枚ずつはがすのがどれほど楽しみだったか。
「やっとこの苦しい練習から解放される」と思っていたので、目指した目標が遠ざかってしまった苦しさは理解しているつもりです。
でも、それでも前へ進まなければならないし、アスリートである以上、レベルアップも果たさなければならない。
今は残念で、がっかりする気持ちもあって当然ですが、少しでも早く次の目標、モチベーションを持って進む。それがメダル獲得に向けた、新しいスタートではないでしょうか。

――最後に、東京五輪を目指すアスリートへのメッセージ、そしてどんな大会にしたいか。大林さんご自身の東京オリンピックに向けた思いを聞かせて下さい。

まず選手のみなさんには、「たら」「れば」ではなく、この1年でいいことをたくさん考えたほうが勝ちだと思ってほしいですね。
1年シミュレーションができる、もしかしたらオリンピック本番の会場を使える回数も増えるかもしれない、と地の利を活かせるチャンスができたとプラスのイメージを膨らませてほしい。
そして、もともと東日本大震災で大きな被害を受けた東北の復興オリンピックを掲げた大会ですので、東北、被災地に対しての思いは絶対に忘れてはいけないものであり、そこにプラスしてこの東京オリンピックは「世界復興オリンピック」と言ってもいいぐらい、開催できたあかつきには世界が1つになって盛り上がる、今までにない一致団結感が生まれる大会になるはずです。
苦しんだ分、素晴らしいオリンピックが待っていると信じて選手は頑張るしかないし、私たちも応援すること、伝えること、できるサポートをするしかないですよね。あれほど大きな被害を受けた震災からも日本は這い上がってきました。
世界中が苦しんでいる今だからこそ、日本の底力を今こそ見せてやろうよ、とホスト国として力を合わせ、みんながコロナに打ち克ったと世界が1つになれる。その大きなチャンスが、東京オリンピックだと信じています。

©小笠原大介

[PROFILE]

大林素子(おおばやし・もとこ)

1967年6月15日生まれ、東京都小平市出身。八王子実践高等学校に進学し、高校在学中に全日本代表に選出。オリンピックには、1988年のソウル大会、1992年バルセロナ大会、1996年アトランタ大会の3大会に出場し、エースアタッカーとして活躍した。現役引退後はスポーツキャスターとしてバレーボール中継解説なども務めている。

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