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東京五輪2020

アスリートインタビュー

「100mバタフライで金を取りたい」 金メダルを目指し続ける全盲スイマー木村敬一

2020年8月7日 12:29配信

©東京ガス

夢の舞台は、いつも4年ごとにやってくる。選手はひとつの大会が終わると、次の大会へ向けて新たな挑戦を始める。

パラ競泳の木村敬一は北京パラリンピックから3大会連続で出場し、1年延期になった東京パラリンピックに向けて今も練習を続けている。北京からロンドン、ロンドンからリオデジャネイロ、そしてリオデジャネイロから東京に至る4年間は、木村にとってどういうものだったのか――

それぞれの4年間を振り返り、1年延期になった東京パラリンピックへの思いを語る。

(取材・文=佐藤俊、写真=東京ガス、Getty Images)

初出場の北京大会を経てメダル獲得が目標に

――パラリンピックの初出場は北京でした。そこに至るまではどういった時間でしたか?

アテネのパラリンピックは知っていましたけど、僕にとっては届くわけがないという世界でした。自分がパラリンピックに出られるかなと思ったのは北京大会の2年前で、高校に上がったときでした。だから、ちゃんと頑張ったのは4年間ではなく、北京に向かうラストの2年間ぐらい。この2年間は自分の生活が水泳中心になり、周囲からの見方は普通の高校生から水泳をやっている高校生という身分に変わった時期でした。

――北京パラリンピックは、どのような大会でしたか?

他の人よりも頑張った期間が短い分、あっさりというか気がついたら終わっていた感じでしたね。取材とかにもたくさん来ていただいたり、親戚が喜んでくれたりしたので他の大会とは違うなっていうのは感じました。18歳の自分にとってはすごく大きな出来事だったのかもしれないですけど、後から振り返ると大した出来事ではなかったですね(笑)。

――パラリンピック初出場を経て、ロンドンに向けた4年間はどういう時間でしたか?

スタートする時点で出場するだけではなく、メダルを取りたいという目標がありました。それに日本大学に進学したことで、泳ぐ環境が良くなって練習量も増えましたね。それまで特別支援学校では一人で練習していたんですけど、退屈なことが多いなって思っていたんです。でも、大学で健常者の世界に出ると、応援してくれる友人が増えたし、みんなと泳ぐのが楽しかったんですよ。だから、ロンドンまでの4年間は単純に自分の人生のなかで、すごく楽しい時間でした。

――日本大学水泳部での練習はかなりハードだったのでは?

僕は体育会水泳部に入れなかったんです。パラリンピックには出ていたけど、トップクラスの健常者とは単純に泳ぐスピードが違い過ぎました。同じ練習はできないということで、水泳サークルを紹介してもらいました。そこは初心者もいればインターハイ経験者もいるという、なんか訳わからないところでしたが、自分よりも速いか同じくらいの選手と一緒に練習ができたので、入ってすごく良かったなと思いましたね。

金を目指したリオまでの4年間で水泳の苦しみを味わう

 ロンドンパラリンピックでの木村は100m平泳ぎで銀メダル、バタフライ100mで銅メダルを獲得した。100m自由形、50m自由形はともに5位入賞。「ロンドンでメダル獲得」という目標を見事に達成し、残った宿題は金メダルだけになった。

――ロンドンで結果が出ましたが、次のリオデジャネイロまでの4年間はどうでしたか?

リオでは金メダルを取りたいと思ってスタートしたので、これからの4年間は楽しいだけでは済まないなと思っていました。僕は水泳選手になる前に、メダリストになってしまった感じなんです。それはパラリンピック特有なんですよ。パラリンピックは選手層がそれほど厚くないので、2番手3番手になるのはオリンピックほど難しくないと思っています。ただ、トップに立つのは簡単ではない。それで野口(智博)先生にコーチについてもらって、1対1のパーソナルでプログラムを組んでもらいました。大学の時はサークルだったので、ところどころでいい加減というか、平気でサボることもありました。でも、1対1だとサボれないし、この4年間でやっと水泳選手っぽくなった感じでした。

――金メダルを取るために課題は明確でしたか?

野口先生に最初に言われたのは、「そもそも水泳選手の体になっていない。パワーも持久力もベースが低くて、練習を積むための体ができていない」ということでした。それでめちゃくちゃ練習が増えて、1日に12キロくらい泳いで、ウエイトトレーニングもやるようになりました。こういう無茶な練習は、本来であれば6歳から15歳くらいまでにやらないといけないんですよ。でも、僕は大学で楽しい水泳を先に知ってしまった。苦しくて、苦しくて仕方ない水泳を知らなかったんですけど、それを23歳にしてやっとやるという感じでした。

――苦し過ぎて水泳が嫌になりませんでしたか?

もう、ずっと嫌だなって思っていました(笑)。でも、僕のなかではちゃんと練習しないとダサいなっていう思いもあったんです。大学時代にいい加減にやってきましたが、それでパラのメダリストというとパラの評価そのものが低くなってしまう気がするんですよ。そんなに大したことやっていない選手でもメダリストになれるんだって思われるのは嫌だから、やっぱりちゃんと練習しないと格好悪いなって思ったんです。

――よく乗り越えられましたね。

いや、乗り越えたというよりは、ブラ下がっていた感じです(笑)。しんどい練習を大人になってやると中途半端に知識がついているため、こんなに泳いでレースに生きるのかとかいろいろ考えてしまい余計にしんどくなるんです。でも、それは人生のどこかでみんながやってきたことだからと言い聞かせてやっていました。

――我慢の連続だと、どこかでストレスを発散しないと壊れてしまいますよね。

だから、もう病んでいましたよ(笑)。病んでいたけど、野口先生もこの壁を越えさせないといけないとわかっていたので、あえて鬼になってくれました。

©Getty Images

4つのメダルを獲得も満足せずに単身アメリカへ

 厳しく苦しい練習をこなして、木村はリオデジャネイロに乗り込んだ。5種目すべてのエントリーを自ら決め、最低でも金メダルをひとつ。残りもすべてメダルを取るつもりでレースに臨んだ。しかし、木村は日本の裏側のプールで厳しい現実を突きつけられた。

――リオは金メダル獲得のために乗り込んだんですよね?

乗り込んだけど、金メダルが取れなくてがっかりでした。「こんなに練習したんだから金メダルを取れないと浮かばれないぞ」と、自分で自分にプレッシャーをかけてしまったんです。それって、しんどいですよね。人からかけられるプレッシャーって知れているんですよ。だって、周囲の人は僕が金メダルを取ったからといって、人生が変わるわけじゃない。でも、僕は金メダルを取ると多少なりとも人生に影響があるわけで、結果によって影響を受けるのは他の誰でもなく僕なんです。だから、自分で自分にプレッシャーをかけたんですけど……。自分に負けました。

――メダルを4つ取っても、金メダルがないので喜べなかったのでしょうか?

疲労が喜びを上回っていましたね。もう疲れたので大至急、日本に帰りたいと思っていました。でも、帰国したらパラの日本選手団は誰も金メダルが取れていなくて、僕が一番頑張ったと褒められてしまいました。それなら「まあ、いいか」っていう気になりました(笑)。

 リオデジャネイロパラリンピックから戻ると、木村は野口コーチの下から離れた。ロンドンからリオデジャネイロまでこれ以上ない過酷な練習を積んだが、それでも金メダルは取れなかった。これからの4年間、これ以上に厳しい練習を続ける自信と覚悟がなかったという。

 しかし、その後の1年間はレベルを落とさないように泳ぎは続けた。徐々に復帰を模索し始めたなか、木村が下した決断はかなり大胆なものだった。

――2018年4月に活動拠点をアメリカに移した動機は?

水泳、生活環境を含めて、成長できるかなって思ったんです。東京で練習をしても泳ぐのは速くなったかもしれないけど、それだけだと思うんです。でも、僕は泳ぎにプラスして今後の人生を考えたとき、人生を豊かにする経験を積みたかったんです。

――アメリカの生活は刺激的でしたか?

門をたたいたのがリオで優勝したブラッドリー・スナイダー(米国)のコーチだったんですけど、その人の指導を受けられるだけでワクワクしましたね。練習は週6日で、コーチの言っていることをひと言たりとも聞き逃すわけにいかないと思って集中していました。ただ、英語を話すこともできないし、もちろん見えてもいない。だから、最初は本当に何もわからないないなかだったので、生きることに必死でした。でも、生活に慣れていくと今度は寂しくなって、日本の友人に電話したり、アメリカの友人に電話したりして、どこかに連れていってもらえるようにお願いしていました。

 アメリカの生活は、うまくいかないことを前提に考えていたという。日本とはサポート体制やケアの方法も全く異なる。肩が少し痛いので「アイシングをしたい」というと、大量の氷が出てきてラップでぐるぐる巻きにされた。ターンの際は日本ではたたいて音を鳴らしてサポートしてくれるが、アメリカにはそんな人はいない。プールサイドに大量の水をまいて「その飛沫を感じてターンするんだよ」とアメリカの選手が教えてくれたが、そういうことを含めて木村にとって戸惑うことが多かったようだ。

――緻密さとアバウトさの世界のなかで、鍛えられたのは精神面でしょうか?

小さなことは気にしなくなりましたね。メンタル的にタフになったと思います。

今度こそ「金を取りたい」と挑む東京パラリンピック

 新型コロナウイルスの世界的な感染拡大によって、東京オリンピック・パラリンピックの延期が決定。2020年に向けて厳しい環境に身を置いてきた木村は、1年後をどう迎えるのだろうか――

――コロナ禍で東京パラリンピックは1年延期になりました。

仕方ないと思いましたね。スポーツはそもそも平和なときにしかできないので、今はやっている場合じゃない。1年延期が決まったときは、単純に1年間さらにトレーニングができるし、悪くないと思いました。でも、今は1年後に本当に開催できるのかってすごく心配ですし、そのことを考えるとしんどいですね。仮の生活をしている感じがして、腰を据えてトレーニングができているかというと、そうではないなって思っています。

――パラリンピアンは東京大会の後を心配している人が多いですね。

僕は東京パラリンピック後に、今と同じくらいのサポートを受けられるのは難しいと思っています。ただ、それは選手のこれからの頑張り次第だと思うんですよ。自国のパラリンピックで結果を出して、みなさんに応援してもらえる選手にならないとサポートはしてもらえないし、そういう選手であり続けることが必要です。そういう選手であり続けたいと、僕は思っています。

――1年後の東京パラリンピックはどういう舞台になるのでしょうか?

リオが終わってからの4年間の集大成になります。競技人生をそこで終えるかどうかは決めていませんが、金メダルをひとつ、できれば100mバタフライで取りたいですね。それが一番メダルに近いと思っています。

――それにはラストの強化が必要になりますね。

今、100メートル後半の強化をしています。ただ、ラストは本当にキツイんですよね。レースでは健常者のように隣とかが見えないので、ゴールするまでひたすら自分と戦っています。「ゴールしたら一生泳がないぞ」という気持ちで泳いでいます。ラストの一番しんどいところは意識を飛ばすつもりで無になって泳いでいますが、調子が良いときはきつくなる前にゴールできるんです。そのときは「どうだ」って感じで、順位が出るのを待っています(笑)。

――東京パラリンピックでそうなると良いですね。

そうですね。「リオの分を取り戻してやる」みたいな感じではないので、東京では気負わずにレースに挑めると思うんです。金を取りたいですね。

 4年ごとにいろいろな経験をしてきた。日々速くなる泳ぎを磨き、海外では小さなことを気にせずタフに生きるメンタルを醸成できた。そして今は、自分の弱点をなくす作業しながら来年に向けて着々と準備を進めている。北京からコツコツと積み重ねてきたものをすべて東京で発揮して金メダルを手にすることができたら、木村はどんな境地に至るのだろう――「良い人生を送っているな」。きっと、そう笑えるに違いない。

[PROFILE]

木村敬一(きむら・けいいち)

1990年9月11日生まれ。滋賀県栗東市出身。東京ガス株式会社所属。2008年北京パラリンピック・2012年ロンドンパラリンピック・2016年リオデジャネイロパラリンピックの競泳競技に日本代表として参加し、ロンドンとリオでは銀メダルと銅メダルを獲得した。愛称は「キム」。種目は多岐に渡り、自由形・平泳ぎ・バタフライのそれぞれでメダルを獲得している。

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