インタビュー
岡山リベッツ・森薗政崇(前編):今、一番伝えたいこと~選手として経営者として~
近年、日本が飛躍的に力をつけ、世界一の座にも手が届きつつある卓球。
試合では、スピード、回転、コースの変化を組み合わせ、戦術を練り、その勝敗には、メンタル面も大きく影響する。選手たちは、わずか直径40mm、重さ2.7gのボールに人生をかけ、それぞれの物語を紡いでいる。
この連載コラムでは、さまざまな選手たちにインタビューし、そのプレーや人間性の魅力に迫る。
今回は、11月の世界選手権に臨む森薗政崇選手。(インタビューは10月18日実施)
(聞き手・文=山﨑雄樹)
<前編・今、一番伝えたいこと~選手として経営者として~>
―きょうはよろしくお願い致します。森薗選手にはおききしたいことがたくさんあります。
世界選手権について、Tリーグについて、プレースタイルについて、ルーティンについて、そして、社長業や趣味について…本当に多才ですね。そのなかで森薗選手が読者の皆さんに今、一番お伝えしたいことは何でしょうか。
森薗政崇選手(以下、「」のみ)
「やはり、一番は『卓球を皆にしてもらいたい、観てもらいたい』ということに尽きます。僕らが卓球に携わっている時代にオリンピックで水谷隼さんと伊藤美誠選手が金メダルを取ってくれて、これだけメディアの方に注目していただいて、皆から関心を寄せてもらっているというタイミングは、生きている間になかなかないと感じています。
これを機に、趣味や遊びでもいいので卓球に携わってくれる人が増えて、卓球業界が盛り上がることが一番めざすべきところだとすごく思っています」
―同感です。確かに、この時代に自分がいるということはすごいことですよね。
「そう思います。両国国技館で行われた2018年のTリーグの開幕戦(木下マイスター東京対T.T彩たま)を、僕ら岡山リベッツの最初の試合はリーグの開幕戦ではなかったので、明治大学卓球部監督の高山幸信さんと2人で観に行きました。
そのときに高山さんから言われた言葉が今でもすごく心に刺さっています。両国の枡席で試合を観ながら、周りにたくさんのお客さんがいるなかで『この時代に卓球をできていることに感謝をした方がいい』と言ってもらいました。
本当にその通りだなと思って、プレーヤーだけでなく、その試合をつくってくれた人たちがたくさんいるわけで、その中心にいられることは本当に幸せだと思いました」
―卓球業界を盛り上げるために自身が取り組まれていることや、これからしたいことはありますか。
「今、僕の会社(FPC株式会社)がやっていることは点だと思っています。やれることをやって、少しでも卓球界に貢献していこうと考えていて、すべてがまだ点です。
高校生にむけた強化合宿や大会を行ったり、ママさんたちにむけた大会を定期的に開いたり、卓球場を運営したり、卓球用品の通信販売をしたりと、卓球業界のことを点でやっているのですが、今後は、点と点を線でつなげられるように皆と動いています。
これができあがるときに卓球に携わるすべての人が幸せになってほしいと思っています。周りのいろいろな方からは、『選手としてプレーをしながらの経営は大変じゃないか』とか『気持ちがぶれていないか』とか言われました。
ただ、僕自身の生活を鑑みたときに、何もしていない時間がすごく多いと思いました。プロ選手は『24時間卓球のことを考えて、1日12時間練習して』と思われがちですが、実際は年齢を重ねるに連れて体力も落ちていきますし、その分研究に時間を費やすなど、練習時間はどんどん減っていきます。
僕の場合、1日に8時間睡眠を取るとして、何もしていない時間が4~5時間はあって、すごくもったいないです。その時間を自分がやりたかったことに充てられたら、全然苦じゃありません。
実際に経営を行っていても負担はないですし、いろいろなことに目を向けられたり、これまでの自分にはないことを学べたりしていますので、むしろすごくプラスになっています」
―いつから経営のことを考えるようになったのですか。
「大学生の頃から自分のなかでは構想があり、卒業して社会人1年目から事業を始めようと思っていました。学生時代は、実際に卓球場を開くとして家賃の相場や雇用人数、固定費がどれぐらいで、どれだけ売り上げを出せば利益が出るだろうと、細かいところまで考えてはいましたが、それでいっぱいいっぱいでした。
元々は、中学1年生のときにドイツに留学させてもらったことがきっかけだと思います。生活が保障されていなくて、卓球の試合に勝って自分で給料を稼ぐことが必要で、住むところも自分で契約して、食事も自分で作っていました。すべて自分のことは自分でやりましょうという感じでした。
最初は(ドイツの卓球リーグの)4部からスタートだったので、給料はほぼ貰えず、近くのスーパーマーケットの掃除をして、売れ残った肉を貰うなどしていました。親からの仕送りがあったり、現地に元木下マイスター東京総監督の邱建新さんがいらっしゃって、ある程度のサポートはしていただいたりしましたが、最初は料理も作れないどころか、料理を作ろうという発想にもならなかったです。
『100ユーロ持っていたら、これで何ができるか』というお金の価値もまったくわかりませんでした。邱さんが経営している卓球スクールでアルバイトをさせてもらって、食いつないで生活していました」
―恵まれた環境のなか、卓球に打ち込んでいたとばかり、思っていました。驚きました!
「ドイツに行かせてもらった選手は、皆、少なからず苦労していると思います。例えば、上田(仁)さん(T.T彩たま)は、寒いなか明け方に歩いて帰ってきたことがありました。
『どうしたんですか』ときくと、終電がなくなってしまって、当時はWi-Fiなんていうものもなく、地図のアプリもなく、住んでいた場所が線路沿いだったので、『線路沿いを歩けば家に着くと思って線路沿いを歩いてきた』と言ってました。
歩いて3~4時間だと思います。皆、そういう環境で育ったので、メンタルの強さは磨かれました。自分のことは自分でやらなければなりませんでした。僕が滞在していた最後の方は、及川(瑞基・木下マイスター東京)など、日本人選手が入れ替わり立ち替わり、4~5人がいて、僕が皆の分の食事を作っていました。
皆、2部リーグや3部リーグの選手なので、なるべく節約しなければなりませんでした。練習が終わった後、スーパーマーケットに行って、安いものだけを買い集めて、それで何を作れるかという食事を毎日していました。だいたい1人の1回の食費が2ユーロいかないぐらい、1.8ユーロぐらいにおさまるように調整していました。当時、日本円で280円ぐらいでした。
すごくお金に困っていたので、何をどれだけやればお金がもらえて、それでどれだけの御飯が食べられるかということをすごく考えていました。おそらく、そういった経験が今の経営に結びついているのだと思います」
―実況のなかで「ドイツ・ブンデスリーガでのプレー経験があります」と、ともすれば簡単に紹介してしまうこともありますが、決して一言で語ることのできない苦労があったのですね。さて、いよいよ世界選手権(11月23日~29日・ヒューストン)まで約1か月となりましたが、現在の心身のコンディションはいかがですか。
「今はTリーグの試合もありますし、世界選手権の代表選考会(8月30日~9月2日・新潟県新発田市)に身体のピークを持っていったので、正直、今はいい状態とは言えないです。ただ、これまで何回も経験してきたことですが、調子が悪いから試合に負けるとか、調子がいいから勝つとかいうものではありません。
試合当日に身体と心がフィットして、自分の積み上げてきたものをちゃんと出せるというときが一番勝てる状態ですので、まったく焦りはありません。むしろ、今、身体の状態が悪いということは、ここから上がっていく一方だと考えています」
―今は、どのような準備をしていますか。
「用具の準備をしています。例えば、僕の場合、シューズは2か月履くとちょうどいい状態になるので、世界選手権の2か月前から履き始めています。インソール(中敷き)も今のうちに変えておかないと、身体のバランスに馴染んだものにならないので、準備を済ませました。
ラバーも同じ銘柄でも1枚1枚硬さや表面のツヤが違っています。ですので、今のうちに大量にラバーを取り寄せて、そのなかから自分に合うものをピックアップしています。
世界選手権の前にも追加しますが、今回は30枚準備して、そのなかからランク付けして、5枚ずつ選びます。摂取するサプリメントもそうです。今は、逆算して、試合当日に慌てなくてもいいように準備をしています」
―代表権争いも壮絶でした。選考合宿は、3日間で7ゲームマッチを12試合という過酷な戦いで、予選リーグ4勝1敗、決勝リーグ5勝2敗、2位で代表を勝ち取りました。振り返っていかがですか。
「正直、すごくしんどかったです。脱水症状がいきすぎて脳貧血までいってしまって、身体が寒くて目がチカチカしてきてしまって、決勝リーグ1日目の最後の試合を放棄してしまいました。
会場にいらっしゃった救護班によると、脱水症状と脳貧血という診断で医師からは『(出場を)やめられるなら、やめた方がいい』と言われましたが、決めるのは自分ですし、放棄した試合と次の日の2試合、あわせて3試合のうち1試合でも勝てれば代表になれるという優位な立ち位置にいましたので、それを心の支えにしていました。
また、帯同してもらったトレーナーからは入浴時間や食べ物や飲み物など食事の内容の助言をもらって、復活しました。ただ、中国も似たような苦しい選考会を勝ち上がってきた選手が代表になっていますので、自分の体力のなさや準備の悪さをすごく反省しました。
水谷(隼)さんを後輩として近くで見てきて、一番尊敬しているところは、どんな状況であれ、ベストパフォーマンスに近い状態でプレーできる、何とか勝ち切るということです。
結果的に代表にはなれましたが、1試合棄権してしまったことで、まだまだ身体が未熟だったり、身体に対する知識が足りなかったりしたと反省しています」
―2020年に行われるはずだった世界選手権(団体戦)の代表も大激戦の末、勝ち取りましたが、残念ながら中止になりました。
「本当に悔しかったです。僕は今まで個人戦でしか世界選手権に出たことがなくて、団体戦はずっと日本から観ていました。団体戦では、自分が目標にしてきた選手や素晴らしい仲間だと思っている選手と一緒にコートに立つことができます。
それが、すごくうらやましくて何としても出たい、死ぬまでに1回出たいと思っていた大会でした。それがなくなってしまって本当に悔しいです。でも、こういった思いをしているのは自分だけではないと考えました。
全中(全国中学校体育大会)がなくなり、インターハイがなくなり、毎週のように開かれていた街のオープン大会も中止になり、ママさんたちの楽しみもなくなりました。
もちろん、残念さの度合いに差はあると思いますが、皆が卓球に触れられなくて悲しんでいるときに、自分だけが悲劇のヒーローでいるのはダサいと思いました。
それだったら、うちの会社で、インターハイがなくなってしまった高校生のために大会をやりたいとか、ママさんにむけたオープン大会をもっと増やそうとか、社員やパートナー企業と話し合いました。
その分、忙しかったので、『世界選手権がなくなってしまった。僕の卓球人生は終わった』というような気持ちにはならなかったです」
―もちろん団体戦と個人戦は違いますが、今回、もう一度代表を勝ち取ることができてお気持ちはいかがですか。
「このコロナのときに自分がやってきたことは間違いじゃなかったということを結果で出せたと思います。もちろん、今がベストではないので、これから自分の卓球も生活も改善していかなくてはならないのですが、ひとまず代表になるという結果を得られたことはすごく自信になりました」
―世界選手権では張本智和選手とダブルスを組みますね。
「張本選手とは、これまで3回、大会に出たことがあります。2018年3月(6日~11日)のカタールオープンと(20日~25日の)ドイツオープン、そして、2020年のカタールオープンです。
初めて出たときは水谷・大島(祐哉)ペアに負けて(0-3)駄目で、1週間、ドイツで張本選手と2人で練習しました。その1週間後の大会でもまた水谷・大島ペアと対戦して、リベンジすることができました(3-2)。
やはり、やればやるほどよくなるペアだと思います。できればたくさんの時間を使ってダブルスの練習をしたいのですが、張本選手にはシングルスでメダルを取るという仕事もありますし、どれだけ練習のバランスをうまく取れるかが大事になると思います。楽しみです」
―世界選手権での目標を教えてください。
「メダルです。もうとにかくメダルです。ダブルスでもシングルスでもどちらでもいいのですが、目に見える結果がほしいです。
オリンピックに出た選手の話をきくと、オリンピックでは帰国して空港に着くと『メダルを取った人は左(に行って記者会見などの取材対応)、取れなかった人は右に行って解散』というように、わかりやすくメディアへの露出が変わります。
僕らスポーツ選手は勝つことが仕事で、その当たり前のことをまざまざと見せつけられるのは本当に悔しいですし、自分自身が世界選手権に出たときにも『なんで勝てなかったんだ』と思ったことは今でも覚えています。
メダルを取ること、結果にこだわることはひとりのスポーツ選手として、当然のことですし、その気持ちを強く持ちたいです」
(つづく・後編は東京オリンピックでの悔しさ、Tリーグでの活躍から趣味のお話まで)
【プロフィール】
森薗 政崇(もりぞの まさたか)
1995年4月5日生まれ。東京都西東京市出身。4歳のときに父・誠さんの影響で卓球を始める。出身校は青森山田中学・青森山田高校、明治大学。全日本選手権のダブルスでは高校3年時の2013年度の初優勝から2連覇(パートナーは三部航平)、伊藤美誠と組んだ混合ダブルスでも2017年度から3連覇を達成。シングルスでは今年、準優勝の成績を残している。世界選手権には3回出場し、2017年には、大島祐哉とのペアで銀メダルに輝く。Tリーグでは岡山リベッツでプレーし、1stシーズンのダブルスのベストペアに選ばれる(パートナーは上田仁)。戦型は左シェークハンド両面裏ソフトのドライブ攻撃型。得意なプレーはチキータ。所属はBOBSON。
【著者プロフィール】
山﨑 雄樹(やまさき ゆうき)
1975年生まれ、三重県鈴鹿市出身。小学生、中学生と懸命に卓球に打ち込んだが、最高成績は県4位、あと一歩で個人戦の全国大会出場はならず。立命館大学産業社会学部を卒業後、20年間の局アナ生活を経て、現在は、フリーアナウンサー(圭三プロダクション所属)として、Tリーグ(dTVチャンネル・ひかりTV・AmazonPrimeVideoなど)や日本リーグ(LaboLive)、全日本選手権(スポーツブル)など卓球の実況をつとめる。東京2020オリンピック・パラリンピックではNHKEテレのナレーションを担当。また、愛好家として、40歳のときにプレーを再開し、全日本選手権(マスターズの部・ラージボールの部)に出場した。