インタビュー
T.T彩たま・上田仁(中編):オーバートレーニング症候群から休養へ
近年、日本が飛躍的に力をつけ、世界一の座にも手が届きつつある卓球。
試合では、スピード、回転、コースの変化を組み合わせ、戦術を練り、その勝敗には、メンタル面も大きく影響する。選手たちは、わずか直径40mm、重さ2.7gのボールに人生をかけ、それぞれの物語を紡いでいる。
この連載コラムでは、さまざまな選手たちにインタビューし、そのプレーや人間性の魅力に迫る。
今回は、オーバートレーニング症候群による1年間の休養を経て、10月に行われた全日本社会人選手権で4回目の優勝に輝き、復活を果たした上田仁選手。(インタビューは11月12日実施)
(聞き手・文=山﨑雄樹)
<中編・オーバートレーニング症候群から休養へ>
―上田選手が苦しんだオーバートレーニング症候群についてうかがいます。私も同じような病気を経験していますので、前編でも共感するお話ばかりでした。私も、病気になって失ったものもたくさんありますし、病気になってよかったとまでは言い切れませんが、得たものや見えるようになったものはあります。上田選手はいかがですか。
「おっしゃる通りですね。もし休養という選択を取らずに、そのまま歯を食いしばって、『まだまだ』と思ってやっていたら、引退していたかもしれません。今は休んでよかったと思っています。
過去の自分は勘違いをしていたのだと思います。難しい話ですが、トップでいるためには、いい意味で勘違いをして、自信を持っていないと駄目です。謙虚な姿勢を持ちながらも、いい意味で勘違いをして『俺はできるんだ、俺は強いんだ、俺じゃなきゃ駄目だ』という気持ちがないとやっていけないのも事実です。ですが、その勘違いが実力と見合っていたかという問題があります。
僕自身は、その勘違いが自分の実力を超えてしまっていたと、今なら思えます。自信ではなく過信でした。他人と比べてばかりいて、自分を見失っていました。自分というものがわからなくなり、周りがすごく気になりました。日本代表の座を争っているので、正直に言うと、自分と同じぐらいのランキングの選手については、心のなかでは『負けろ』と思っていました。今は、逆に本当に素直に『勝ってよかったな』と思いますが、今振り返れば、当時の自分は殺伐としているというか、鬼気迫るというか、本当に余裕がなかったと思います。
自分の発言ですごく自分を苦しめていたと感じています。時には他人と比べることも競い合うという面では必要なことだとは思いますが、本来、やはり比べる対象は自分自身だと考えています。きのうの自分よりきょうの自分です。きのうの自分を超えることは成長ですので、自信に変えていいですし、超えられなかったからといって駄目なわけでもありません。そういった日々の小さな積み重ねが、当時はなかったなと思います。
結果がいいときは、勘違いがいい方に作用してくれましたが、勝てなくなってきたときに、その勘違いが勝手に自分の首を絞めてしまって、ひとりで苦しくなっていきました。もし本当に自分に実力があれば、勝てなくなった状況も跳ね返せていたと思いますが、実力が伴っていなかったと思います。なぜそうなってしまったかというと、自分の弱さを自分で認めたくなかったからです。プライドがあって、自分でその弱さを受け入れることが負けだという感覚で、余計に自分を苦しめていました。だからこそ、『今は楽』という言い方はおかしいですが、『自分は弱い』という逆の発想になっています。
休んだことによって、もうひとつ感じることは、自分の弱いところを認めて戦っている人は強いということです。弱さを一生懸命隠して戦うことが美学だと思っていましたが、弱い自分も受け入れてなお戦うことができる人は、人として強いのかなと思います。こういった今まで見えなかったことが見えるようになりました。心因性の病気だったので、心とは何かを考えるようになりました。他人への接し方や言葉の使い方も考えますし、それが卓球にもいい影響を与えていると思います」
―苦しい状況に追い込まれる原因は何だったのでしょうか。
「はっきりとあります。僕は、東京オリンピック出場をめざして実業団の協和キリンを辞めて、思い切ってプロの世界に飛び込みました。オリンピックの代表選考レースにも自分の名前が挙がってきていました。オリンピックの代表が決まる前の年(2019年)に世界選手権がありました。僕はそれまでダブルスでの出場経験はありましたが、シングルスでは出たことがありませんでした。
そのときのランキングや自分のポジションからすれば、代表になれる可能性は大いにありました。1次選考会は2018年の12月にあったのですが、その直前の11月に、世界ランキング上位の選手が勢揃いしたスウェーデンオープンとオーストリアオープンというワールドツアーが2大会ありました。
僕は世界ランキング27~8位ぐらいでしたが、2大会ともベスト16と好成績を残すことができて自分のなかで手応えを感じ、世界選手権の代表にむけていいアピールができたと思いました。それだけに選考会にかける思いも強く、自信がありました。しかし、蓋を開けたらボロボロの結果(3勝6敗・10人中9位でグループリーグ敗退)で、本当に心に穴が空いたような、抜け殻になってしまいました。
たぶん現実を受け入れることができなかったのだと思います。当時の世界ランキングも、僕は日本人選手のなかで4番目か5番目で、国内で1番目~8番目の他の選手は皆、何らかの種目(シングルス・ダブルス・混合ダブルス)で世界選手権に出ることができたのに、僕だけが出られませんでした」
―私も、その選考会はよく覚えています。グループリーグの序盤で、当時同じチーム(岡山リベッツ)だった森薗政崇選手と対戦し、激戦になりましたね。
「グループ内の世界ランキングは僕が1番で森薗が2番目でした。僕たちが岡山リベッツの選手同士ということやグループ内に愛知工業大学や愛工大名電中学・高校の選手が多かったので、(終盤に勝敗の駆け引きがないように)同士討ちからスタートしました。今はまったくそんなことは思っていませんが、僕は2試合目で森薗と対戦することになり、『いくらなんでも長いリーグ戦の2試合目でランキングが1番目と2番目の選手が対戦することはないだろう』とすごく不満を抱いていました。それが僕の弱さだったと思います。
そんなことを気にするよりも予選を通ることを考えるべきなのに、どこかで自信がなかったのでしょう。言い訳を作っておきたいという弱い自分がいて、結局その森薗に2-3で負けるわけです。森薗はそのまま1次選考会を通過し、最終選考会でも優勝しました。一方、僕は立て直すことができず、その次の試合も接戦で落としました。その後の対戦相手も、ランキングが上位の僕に対して思い切ってぶつかってきて、それに耐えられるメンタリティがありませんでした。
踏ん張れなかった自分の弱さを認めて切り替えられていれば、もしかすると結果は違っていたかもしれません。でも、それは『たられば』ですし、今だからこそ、当時は自分のことを過大評価して、勘違いをしていたと気づくことができました。
森薗の方がしっかりとした気持ちを持っていると思いましたし、今回の世界選手権の選考会(2021年8月30日~9月2日)も森薗は苦しいなかでも通過しています。そういった気持ちが自分にはなかったと痛感しています。当時は、そのことがわからなかったですし、仮に他人に指摘されたとしても、何か突っ張ってしまって耳に入らなかったと思います。今、そういった自分の弱さに気づくことができたことは本当に大きいです。
強さと弱さは、本当に背中合わせで、強くなるためには、弱さを克服することも大切ですが、時には弱さを受け入れることも必要だと思います。それができて初めて強さに変わるのだと思います」
―その選考会の後も、全日本選手権やTリーグの試合に出場されていました。
「はい。そういった抜け殻になった状態でも世界選手権に出るためにはあとワンチャンス残っていました。2019年1月の全日本選手権でチャンピオンになれば代表になれるというものでした。抜け殻になっていましたが何とか自分を奮い立たせて『全日本選手権で優勝をめざそう』というモチベーションで臨みました。
その大会は奇しくも水谷(隼)さんがシングルスで10回目の優勝を果たす大会になったのですが、ベスト16で水谷さんと対戦することになりました。優勝するためには、水谷さんを倒さなければなりませんので、必死に立ち向かい、自分のなかではいい試合ができましたが、負けました(1-4)。負けて『すべてが終わった』と思ってしまいました。
とにかく現実から逃げたくて、それ以降お酒を馬鹿みたいに飲むようになりました。そして、卓球をするのが怖いというか、すごく嫌になってしまいました。自分で選んでプロの世界に飛び込んで、好きな卓球をして、家族もいるのに、本当に自分本位なのですが、現実逃避をしたくてお酒を飲んでしまったのだと思います。
実業団の協和キリンを『自分はこういう思いで辞めます』という決意表明までして辞めたのに、何も結果で恩返しできない自分を非常に恥じました。アスリートであるにもかかわらずお酒に走ってしまったのです。そのような状態が半年ほど続き、心と身体のバランスが崩れ、当然のように成績も落ちていきました」
―2018年~19年と言えば、Tリーグは1stシーズンで、プレーオフ・ファイナルにも出場し、ベストペア賞も獲得されていますが…
「1stシーズンの前半は僕がチームのエースとして、ダブルスとシングルスの2試合に起用されていましたが、選考会で森薗に負けて、全日本も駄目で、後半からは森薗がエースとして起用されるようになりました。僕は、口では『ここが痛い』と理由をつけていましたが、自分では自分の状態がおかしいとは気づいていました。
練習はしていましたが、日本代表の合宿でも、心ここにあらずという状態で空元気でずっとやっていました。でも、Tリーグのプレーオフ・ファイナルがあるのでダブルスの練習だけは一生懸命やっていたことを覚えています」
―そのような状態だったとはまったく知りませんでした。その後も国際大会が続き、Tリーグは2ndシーズン(2019年~20年)を迎えます。
「3月にカタールオープン(という国際大会)があり、『(出場を)辞退したい』と言いましたが、『世界選手権の代表選考には落ちたけど、まだオリンピックに出場できるチャンスはあるよ』と、いろいろな説得や励ましを受け、出場しました。
でも、自分の心が折れているのでいい結果が出るわけもなく、終わって日本に帰ってきて、4月に妻に『俺、おかしいかな。病院に行った方がいいかな』とたずねました。ただ、妻には『そんなことはない』と叱咤激励されました。それまで自分は何度も妻に尻を叩かれて頑張ってきていたので、妻もこれまでと同じと考えたのだと思います。
そのまま季節は進み、8月のチェコオープンに出ましたが、ボロボロでした。そのときがピークでした。動悸と震えがひどく、人とも会いたくありませんでした。試合以外は宿舎の部屋から出るのも嫌でしたし、こんなことを言ってはいけないかもしれませんが『死のうかな』と思うぐらいの精神状態でした。
9月に行われるアジア選手権の日本代表にも選ばれていましたが、チェコから『もう無理だ。アジア選手権の代表を辞退する』と家族に電話をかけました。妻もおかしいと気づいていたので、『辞退していいから、とにかく無事に帰ってきてほしい』と言われました。
8月末に日本に戻って、すぐに病院に行ったら、適応障害と診断され、『すぐに休養しましょう』と伝えられました。しかし、アジア選手権の代表こそ辞退しましたが、岡山リベッツのキャプテンでもあり、生活の糧でもあったので『Tリーグ(2ndシーズン)は出よう』と考え、強行出場しました。病気のことは家族以外の誰にも伝えていなかったので、本当にしんどかったです。
T.T彩たまとの試合(2019年9月11日)でピッチフォード選手(イングランド代表)に9本、4本、4本で負けました。負けてベンチにも戻らず、そのままロッカールームに行ってしまって、動けなくなってしまいました。僕にとって、負けて感情を態度に出すことは自分のポリシーに反することです。負けて悔しくても、きちんと『ありがとうございました』と挨拶をすること、スポーツマンである前にひとりの人間であるということを大切にしてきましたし、小さな頃からその教えを自分の支えにしていました。しかし、初めてそれができませんでした。
そんな僕の態度を見てショックを受けたファンの方もいらっしゃったのだと思います。すごく応援してくださる方だったと思うのですが、厳しいというか、誹謗中傷とも受け取れるような辛辣な(SNSの)DMが頻繁に届きました。もちろん自分でもその態度がよくなかったことはわかっているのですが、コントロールできないほど自分がどうかしていたのです。
あり得ないと思いました。どんな試合をしても、そこだけは絶対に譲れない自分がいたのに、変な試合をして負けたことよりも、キャプテンでもありながらそんな態度を取った自分が許せませんでした。さらに、10月にまた世界選手権の代表選考会が続きました。選考会の直前になっても出場する決心がつかず、開催の3日ほど前に『棄権しよう』と家族に相談すると、妻は僕がもう引退すると思ったのでしょう。『ボロボロになってもいいし、誰に負けてもいいからベンチ(コーチ)に入らせてよ』と言いました。その試合を終えて休養に入りました。妻は、『現役生活の最後にベンチに入れて一番近くで観られたから満足だよ。よく頑張ったじゃん。ありがとう』と言ってくれました」
―そんな奥様にとっても、今回の全日本社会人選手権での優勝の喜びは大きかったでしょうね。
「いつか全日本選手権で優勝して、自分より妻にインタビューしてほしいなと思いますね。妻は僕のすべてを見てきて、僕に話していないこともいっぱいあると思います。妻は本当に辛かったと思います。妻が気持ちを強く持ってくれていなければ夫婦共倒れになっていたかもしれません。今回、全日本社会人選手権で優勝する前に、今シーズンのTリーグでなかなか勝てないときも『コートに戻れたんだからいいじゃん』とずっと言ってくれていましたし、『家族としては絶対に戻れないと思っていたところに戻れたことが誇らしいし、勝てていないかもしれないけど、そんなにすぐに結果が出るほど、人生甘くないでしょ』と言っていました(笑)」
(後編は復帰への道のりや今大切にしていることをうかがいます。)
【プロフィール】
上田 仁(うえだ じん)
1991年12月10日生まれ。京都府舞鶴出身。3歳のときに兄と姉の影響で卓球を始める。出身校は青森山田中学・青森山田高校、青森大学。全日本社会人選手権では2015年の初優勝から3連覇を達成後、4年ぶりに出場した今年度も優勝に輝く。
国際大会では2018年のチームワールドカップに日本代表として出場し、準優勝に大きく貢献した。実業団の協和キリンを退社後、Tリーグの岡山リベッツで3シーズンプレーし、1stシーズンのダブルスのベストペアに選ばれ(パートナーは森薗政崇)、今シーズンはT.T彩たまに移籍。戦型は右シェークハンド両面裏ソフトのドライブ攻撃型。安定感ある緻密なプレーが持ち味。
【著者プロフィール】
山﨑 雄樹(やまさき ゆうき)
1975年生まれ、三重県鈴鹿市出身。小学生、中学生と懸命に卓球に打ち込んだが、最高成績は県4位、あと一歩で個人戦の全国大会出場はならず。立命館大学産業社会学部を卒業後、20年間の局アナ生活を経て、現在は、フリーアナウンサー(圭三プロダクション所属)として、Tリーグ(dTVチャンネル・ひかりTV・AmazonPrimeVideoなど)や日本リーグ(LaboLive)、全日本選手権(スポーツブル)など卓球の実況をつとめる。東京2020オリンピック・パラリンピックではNHKEテレのナレーションを担当。また、愛好家として、40歳のときにプレーを再開し、全日本選手権(マスターズの部・ラージボールの部)に出場した。